2024/08/01

夏だから短パンでいることは俺の頭の中では至極当たり前となっているのだが、しかし年齢を重ねるごとに「年相応の格好」という概念が俺の近くまで歩み寄ってきていて、今年もまたしとりという足取りで一歩、来年にはまた一歩、自分のしたい恰好と年齢という記号のもと社会が定義するふさわしい恰好の間で俺は板挟みになり、7マナ地獄万力のように苦しむことになるのだ。

俺は自分がいまだ幼いことは自覚しており、この日記の中でも仕事をしたくないだの投資など俺には関係ないなど戯言のように喚いているが、しかし同時にその言動、考えは俺が大学生のころに構築したものであって社会に出てもう5年だが社会に順応するということを俺が拒否しているからこの考え方も、もしかしたら現実での話し方さえも大学生のようになってしまっているのだと思う。

岐阜という田舎から出てきて東京の23区の中にあるオフィスビルの14階、フロア右側、一番奥の窓側の席に座りながらこの日記を書いているが、この状況からして俺が成熟した大人ではないことが分かってしまう。成熟した大人とはどういうものなのか、全く想像がつかないが俺はそうではないと肌感覚で分かってしまう。中身、精神や考え方をアップデートしていくことは至難の業だが、それと同時に外見をアップデートしていくこともそれなりの難しさだと感じている。つまるところ、いつまで短パンTシャツの格好をしてもいいのか?ということである。

もちろん自分が好きな格好をするというのは大前提ではある。さらにこの悩みは20代、30代に至っては短パンTシャツでもいいのではないかと思っている。(もちろんカジュアルな場においては、だが)俺が悩むのは40代、50代においてのふさわしい恰好とはなにか?という遠大な話題である。30代のオシャレなゲイは大体『POPEYE』みたいなシルエットに収束していくが、40代、50代の方はどのようなファッションを参考にしていったらいいのだろうか。『LEON』ですか?やはりディカプリオですか?40代,50代のゲイの知り合いの外見を思い浮かべてみるが、思い出の中の彼らは大抵裸なので参考にならない。話題の合わないおじさんとの共通事項などSEXしかないのであった。俺って最低である。

最低限、社会において子どもっぽいと思われないような恰好、つまり俺は社会に舐められたくないわけであるのだが、これが如何に矮小な悩みであるかは理解している。しかし、俺がどれだけ厭世的に世間を見つめようと世間は俺を正しく見つめ返してくるのであって、その視線から逃れることはできない。俺自身も社会の中に取り込まれていると認めるしかないわけである。

ゲイにおいて20代は顔、30代は顔と筋肉、40代は顔と筋肉と金、といった俗説があるように年齢を重ねるうちに人間というのはトータルでの評価を求められる。その中でも外見の清潔感というのは当然入ってくるわけで、夏本番、脂汗をだらだらと流し、Twitterでは下ネタを湯水のように垂れ流し続ける俺に至って清潔感など笑い者なのかもしれないが、俺は出来るだけ人には嫌われたくないと思っている。本当に、これだけは真実である。

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