2022/12/21

先日、ナイモンで知らない男性から「ご飯に行きましょう」と誘われたのでこれはなかよしチャンスかもしれないと仕事終わりの12月の寒空の下、人を待っていたのですが結局待ち人は来ず誘ってくれた人とは連絡がつかなくなっていました。しかしこれは悲しい物語ではなく俺の戒めの話でして、完全に俺が調子に乗ってましたというオチでこの話は終わりである。よく考えれば俺に会いに来る人間など俺を殺そうとしてくる人間くらいしかいないのに俺は一体なにに期待していたのだろうか。「勝手な期待は勝手な裏切りを生む」と言ったのは『2.5次元の誘惑』の橘美花莉ですが同じような言葉で人間は太古の昔から戒められており今回はなかよしになれると期待して調子に乗ってしまった俺の敗北なのです。

そんな自己肯定感低めの事を思うと同時に俺自身の価値というか自分が持つ時間には億の価値があるということも思うようにしていて、例えば会社の飲み会や数合わせの合コンなどに対しては絶対に行きたくない、何故なら俺の時間には億の価値があるのでそんなところで時間を使うのは勿体ないと思うようにしている。こういった考え方はアップデートされた俺の価値観として最近追加されたもので反対に俺はいつ殺されても文句を言えない最低野郎であるという考え方は幼少期に培った価値観である。

自己肯定感を高めて生きることはインターネッツの発展により謂れもない誹謗中傷に晒されやすくなった現代ではその防衛手段として必須に近いレベルにまで周知されており、確かにそんなことをしていないと俺たち根暗な人間は人混みの街を歩くだけで死にたくなってしまうものである。根暗として醸成された価値観は現代、引いては大人の世界にはまるっきり向いていないのでどうにかして性格を今体を向けている社会の形に合うように修正する必要性が出てくるのだ。大人になってからの人見知りはただの怠慢だよね、と言われてしまったら俺はうつむくことしか出来ずうつむいて状況が過ぎ去るのを待つことは俺の12歳からの得意技である。

過去の経験により形作られた性格、価値観はアナル用ローションのように粘度高く心にへばりついてくるものでこれは中々拭いきれやしない。小学生の時、俺とたまたま服がかぶってしまった女の子があまりの嫌さに泣いて早退したという経験が形作った俺の非モテの価値観は大人になった今でも「俺は人に好かれないうんこ野郎である」という自意識を生んでいる。しかし大人になりゲイとなり多少他人から好意を受けて俺を好きだと言ってくれる人もいる中で「俺は全くモテない臭いデブでやんす」と言い続けることは果たして正解なのか、好きだと言ってくれる人に対して失礼に当たらないのだろうか。大人になりきれない俺に選択が迫られている。そういえば、大人になれない僕らの強がりを一つ聞いてくれって実はあれ俺のことらしいです。

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