2022/11/17

絶対にやめた方が良い習慣として「先延ばしの習慣」がよく言われているが、これはもうほんとにその通りでやんすといった具合で、先延ばしの習慣はじりじりと自分の良心と周りの環境に悪影響を与えるものである。
人間追い詰められてもなんとかなるものだという経験は悪魔の経験で、デーモンエクスペリエンスですよ、最終的に手に負えなくなるところまで(正確にはギリギリ手に負えるところまで)自堕落を極めてしまうのがこのデーモンエクスペリエンスの効用である。しかもこの自堕落というのは字面通りの自堕落ではなく、先延ばしにしている本人の心は良心によりゆっくりと痛めつけられ金縛りのように動けない状態を指すのです。まさに誰にも得がない状況。しかしこのデーモンに侵された人間はこの意味の分からない状況を魂が許してしまう。なぜなんでしょうか。

最近、仕事の打合せをしていると話し始める前に「すいません」とか「ごめんなさい」と口癖で言っているようで、それを「謝る必要ないよ」と制されることがある。別に俺は何も悪くないのだが「すいません」、「ごめんなさい」という謝りの言葉は俺の口に馴染みがよく、するすると飛び出てきてしまうことから考えると、俺は常に虐げられる側にいたいという深層心理を表しているのかもしれません。
実際、俺は常に虐げられる側にいたい。俺は常に自分のことをカスだと思っており、これは先述した先延ばし癖によりあらゆることを先延ばしにしているという状況を良しとしている自分が常に良心の呵責を覚えているからというのが主な理由である。俺はカスだから...と言うとかなり扱いづらい人間に思うだろうが実際のところ俺はカスなのだが俺よりカスの人間は世の中に多く存在しておりしかしそれでも世界はなあなあで進んでいるのだから俺はカスなのだけどもう別に何も必要ないのです。何が言いたいかと言うと、つまり俺は大丈夫なのです。

この「ごめんなさい」と謝る習慣は壁に向かって「ごめんなさい...ごめんなさい...ごめんなさい...」とブツブツ言っているわけではなく、俺の中ではもっと快活な「ごめんなさい」であって「こんにちは!ごめんなさい!」といった調子で言っているに過ぎない。だから重ねて俺は大丈夫なのですけれど、この被虐精神はどうかして解決出来ないものかと考えてはいる。

そもそもこの世にはごめんなさいで済むものはめちゃくちゃ少なく、ごめんなさいと言ったところでどうにもならないことで溢れている。自分の過ちに対して明確な償いの手段が用意されているのはヤクザの小指を切る行為くらいのもので、ヤクザではない俺たちにはそんな優しさシステムは存在していないので自らの過ち、不誠実はそれを行ってしまった時点でジ・エンドである。

10代の頃から先延ばし癖により様々な不誠実を働いてきた俺は既に人生が暗い部屋に押し込められており、しかしそこには誰の情けか空には星が輝いて見えるのですよ。しかし過ちの重みにより這いずってしか動けない自分は星空を見上げるには首を持ち上げるしかなくしかしそれには大層背骨に負担がかかったので、そもそもこれは俺が見るべき夜空ではなかったのだ、神は俺をそのように造らなかったのだという考えがひどく自然に思えて既に人生に諦めがついている。これが俺の被虐精神の正体であるので、俺はとにかく這いつくばりながらこの暗い部屋から出るしかないのだがやはり暗闇で先が見えない。だから俺はこれから先の人生で金持ちになりたいとか成功したいとかを考える資格がなく、ただ厭世的に暗い部屋にこもりながらたまに見える星を見て笑い老いて死ぬしかないのですが、これって俺的にはアリの人生なのでラッキーといったところで落ち着いてます。

そいういえば、『すずめの戸締り』非常に良い映画でした。
日記ってこんなのでいいのですっけ。日記でした。お疲れ様です。


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