2022/11/08

11月に入ったというのに窓から差す陽光はまるで春のそれでさっき買ってきて机の上に置いたカルピスザリッチが春の日差しに温められてぬるくなっている。ぬるくなったカルピスザリッチ程不味いものはないというのに。

11月だというのに俺の部屋にはまだ扇風機が置いてある。なぜ未だに扇風機が置いてあるか。それは俺が片付けていないからである。扇風機は片づけなければいつまでもそこにあり続ける。これは当たり前なのだが、俺の中では全然当たり前ではない感覚。俺の中で扇風機とこたつは勝手に仕舞われているもの。勝手に仕舞われたそれらを寂しく思うものなのだ。

こんなことは一人暮らしが長い人には当たり前のことだと思うが自分の生活の延長線上には自分しか存在せず、自分が脱いだ服も自分がこぼしたジュースも自分で片づけるしかないという事実。だいぶ前に買った白ごまはいつまでたっても無くならないし、味噌は賞味期限内に使いきれることはない。自分が関与しなければいつまでもそれは放置される。しかしどうしたって生活は続いていく。俺たちは時間に抗う技術を身につけなければ常に時間の奴隷。親戚のあの子は今何歳になった?中学生?早すぎる。

ハロウィンは何もしないまま爆速で過ぎていったしこのままではクリスマスも何事もなく過ぎていってしまいますね。季節ごとのイベントや旬の食べ物はそれこそ、それを楽しむ人のコスプレをした気分にでもならなければ誰も花見や花火大会に連れて行ってくれることはない。誰もTempalayは良いバンドだとかキリンジのテカテカなジャケット写真のアルバムは聞いた方が良いとか親切に教えてくれたりしない。

生活と同じように放っておいたら誰も自分の関わりの延長線には入ってきてくれない。一日中寝て携帯を眺めているだけで一日は過ぎていき、3カ月で3年くらい歳をとる。3カ月で3年の歳をとるわけないだろと俺も以前は思っていましたが、一日中布団に足を突っ込んで同じ音楽を聴いて寝ているだけだと時間という悪魔に精神をやられてくるのが確かに分かる。地球が回るスピードや自分の実際の年齢に歩幅を合わせて歳を取るのは人生を放置している状態だと案外難しい。
春に春の服を着て、秋には秋の服を着る。夜は夜の音楽をかけて朝に起きる。会いたい人には会う。誰かにとって当たり前のことが誰かにとっては技術のいることだったりするんですよね。俺はいつになったらコンビニで買い物しすぎるのをやめられるのか。普通の人はコンビニで千円も使わないらしい。俺はパンだけで千円は使ってしまいます。パンに千円使うのってナシでしょう。

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