2022/02/18②

”推し”って言葉がある。男性同性愛者の同年代数人で集まれば”推し”についての話題になることも少なくない。「最近、推しいる?」「この前推しが自撮りあげててさ。」うんうん、推しね、良いよね推し、生活に彩りを与えてくれるよね、ランチョンマットみたいだね、推し。
全く理解ができない。

すいません。全く、という強い言葉を使いましたが全くといった程ではないがそこそこ理解できない。いわゆる素敵な男性を指して”推し”と称しているのだろうが、推しという言葉には「推しってのは遠くで見ているだけで満足だよ。」とか「推しには幸せになってもらいたい。」というニュアンスが含まれていませんか。俺はこの後半部分が理解できない。俺にとって世の中の同性愛者への好感度を示す尺度は、SEXしたいかしたくないか、でしか測ったことがないからだ。

こんなことを書くと、下半身でしか物を考えていない、男性同性愛者に対して常に性愛の目を向けているのですか?気持ち悪い死になさい、と言われてしまいそうだが、それもしょうがない。こればかりは自分の変態性の話をしたいわけでも、新しい言葉に過剰反応して一石を投じたいわけでもなく、単純に素敵な男性を見るとSEXしたいなと後ろ姿に思うのは俺の中でごく自然なことであるというだけの話です。カッコいい男性を見ると、お付き合いをするところまで想像を膨らませ、そして打ちひしがれて、東中野で彼が下りていく姿を見送る。そこに彼を遠くで見守っていたいなどという感情が差し挟まる余地はない。


もろちん、カッコいい男性に対して具体的な行動を起こしているという訳でもない。Twitterでカッコいい男性を見かけても、自分から話しかけたら煙たがられるかもしれないし、泣かれるかもしれないし、うわぁ虫の死骸からDMが来たと思われるかもしれない。ただ、好印象の人間と仲良くなりたい、性交渉を持ちたいという思考は人として当然だと思うのだけどそれを”推し”として昇華できるのはほんとに世の中色々な考えがあるなと思っている。理解できない感情ながら、好きな存在に対して遠くから見ているだけでいいなんて思えるのはとても美しい心です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?