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場所を変えても、着るものを変えてもわたしはわたし、逃げらんないよ-20240330-20240401
おそろしや。2019年5月5日の自分が、メモを残しておりました。
どんなタイミングで、なぜ、この日の自分がこんな言葉を残したのかは覚えてないけれど。書きたくなる気持ちがわかりすぎる。なぜって、自分だもの。
グサグサきます。
逃げられませんよね。わかっています。
はい。
5年前どころか、わたしはずーーーっと自分から逃げ回っているような気がする。いい加減、仲良くなりたい。
毎日、ぷつりぷつりと断片的に浮かんでは消えていく、自分の自分にまつわるとりとめのないことばを書き出してみる。
思えば、子供のころから、罪悪感とうしろめたさがべっとりこびりいていた。なんでだったのか。
そして、自分から逃げるというのは、その罪悪感やうしろめたさから逃げているということと同義な気もする。
罪悪感やうしろめたさの出どころ
基本的にネガティブなニュースにばかり目が行く子供だった。
世界は暗く、こわいものだと思っていた。
何やらいつもどこかの貧しい国で自分と同じくらいの子供がおなかをすかせているらしい。自分とは顔立ちも肌の色も全然違う子供たちの、あばら骨が浮き上がった写真を見ることがつらかった。ニュースとかだったのか、それとも小学校に上がって以降の教科書とか資料の類だったのか。
それも罪悪感のひとつだった。
生まれた場所が違うだけでこんなつらい目にあうのか。
わたしもあの子だったかもしれない。
世界はこわい。
宮崎勤の事件も覚えている。
今調べたら逮捕当時、4歳とかそんなもんだったみたいなので、リアルタイムのニュースではなく、もしかしたら時間が経ったあとで何かのテレビで見たのか。
いやしかし、4歳って普通にニュース見て言っていることもわかるし、リアルタイムで恐怖していた可能性もあるな。
いずれにせよ、この世界には悪いひとがたくさんいて、自分もこわいことをされるかもしれない。
たまたま、近くにそういう人がいるかいないか。それだけのちがいで、わたしはあの子だったかもしれない。
それに、少し歳の離れた兄がいるので、周りの子供たちより世界に触れるステップがすこし急角度過ぎたところもあった。
兄が、学校の戦争学習の類で、ホタルの墓を見て感想文を書くとかそんなやつがあり、一緒になって見てしまったばかりに、私はその日からしばらく、空襲におびえて眠れない日が続いた。
大きな音が聞こえると、戦争が始まったかもしれない!と思っておびえていた記憶がある。
不思議なことに、そういう時の親の反応が思い出せない。
とにかく罪悪感やうしろめたさの出どころは、わたしは飢餓に苦しむ異国の地のあの子や、凶悪な殺人犯に殺されるあの子や、空襲のなか逃げ惑うあの子だったかもしれないのに、実際のわたしは普通に住み心地のいい場所で、優しい家族に守られながら今日も生きている、というような、この世界の不条理さというか、身も蓋もなさみたいなものを感じていたことに由来する気がする。
生まれる時代や、場所、運、選ぶことのできないことで全部決まるやん!ということを子供ながら強烈に感じていたように思う。
また、幼少期から死への強烈な恐怖があり、それは自分の死よりもむしろ母親の死が対象だったわけだけど、あれはなんでだったんだろう。
夜になると、お母さんが死んでいないか、呼吸の動きを確認したりしていた気がする。薄暗い寝室で、ネル素材の柔らかなパジャマの上にかかった毛布が、上下に小さく動いているところを見てホッとしてまた寝る、みたいな夜の記憶がぼんやりと残っている。
ここまで書いていて、思うことはただ一つ。
自分が母親だったら、対処の正解がわからなすぎる!!キツすぎる!!!
実際のところ、母親はどう思っていたんだろう。
元気で明るく、ナーバスで神経質 というアンビバレンス
アンビバレンス、使い方あってるのか問題はさておいて。
とにかく、わたしにとって世界は暗くおそろしいものだった。
ただでさえおそろしい世界に生きているのに、人は必ず死ぬらしい。
しかもその時はいつ来るかわからない。
意味わからん。
だから、大好きなお母さんやお父さんやお兄ちゃんが突然死んだらどうしようと、いつも思っていた。
世界では、小さな赤ん坊や子供たちがたくさん死んでいる。
昔は自分が暮らしている国でも、戦争ってものがあっておばあちゃんもおじいちゃんもたくさん悲しい思いをしたらしい。いやだ、いやだ、どうして今日、ここに爆弾が飛んでこないって言えるんだ、と本気で心配していた。
大人になってから、母親に子供の頃のそういう感じについて聞いたけど、あんまりピンときていない様子だった。
あれは本気でピンときていなかったのか、ただ少し風変りだけと、極端にひょうきんでおもしろくて明るい子供だったよというポジティブな印象だけでわたしの根本を覆ってくれようとしている親心だったのか、あるいは母親自身もそう思いたい、これまた別の意味での親心だったのか。
そもそも、ワンオペ育児で日々の生活がハードすぎて、またその後待ち構える(今も継続中)夫婦問題がハードすぎて、記憶の彼方へモロモロと剥がれ落ちているだけかもしれない。案外、最後のが本当のところかもしれないな。
実際に、わたしはナーバスでナイーブな反面、相当明るくてひょうきんで目立ちたがり屋なところも大いにある子供だった。
そして、幼稚園のころから、いわゆる先生受けがかなりよかった。
病院でも、さらには母親が通ってい教習所の託児所でさえも、本当に評判が良かったそうだ。
兄が大好きだったけど、同時に自分もお姉さんになる憧れが強かったので、何かができない子や年下の子、赤ちゃんまで、本当に面倒を見ることが大好きだったので、先生たちはよく母親に、○○ちゃんがいてくれると本当に助かる、と言ったらしい。
ほほう。
今思い出すと同級生におせっかいばかりするかなり嫌な子供だった気がするし、自分が周囲より優れていると思っていたので、相当嫌な奴だったように思う。
一方で、兄の影響もあり、幼稚園のころからとんねるずだのビートたけしだのが大好きだった。元気が出るテレビとか大好きで、下品なことやひとがひとを笑わせている光景が大好きだった。兄は幼少期から聡明で物わかりのいいタイプで、いわゆる男子の子育てあるあるを経験しなかった母にとって、わたしの子育てはいわゆる男子子育てにちかいところがあったようだ。
私はスカートもお人形遊びも大嫌いだった。
と、ここまで書いてみって、さらに怖い!
怖いだろそんな子供。
うんこうんこー!といかいってはしゃいだり、外で泥だけになって遊んだり、おじさんたちのお笑いをみながらケタケタ笑っているかと思えば、同じ子供が「シ、こわい」「センソウ、こわい」「サツジン、コウツウジコ、ビンボウ、全部、こわい」とか本気で思ってたからね。心配だよ。
でもきっと子供って、程度の差こそあれ、そんな感じの支離滅裂具合なんだろうな。育てたことないけども。
それに、今思い出せることの断片だって、思い出すたびに自分の微調整が入って、なだらかに全然別の話になっている可能性はある。うっとりできるよう、エディットしがち問題。
そして、信頼できない語り手すぎる問題。
母親からしたら、本当にわたしは底抜けに明るいだけの子供だったのかもしれない。
逃げられない自分の根っこ、ほんの先っちょだけ。行きつく先もなく書き始めたけど、書いているうちに色んな気持ちや情景が思い出されてきた。
実際に字にしてみたら、やはり母親がいつでも私にとってキーなんだなという気もしてきた。
母親と、(思い出したように)父親についてもゴロリと出してみたい。
アラフォーにして、ネックになっていることを少しでも片付けて、身軽にして歩きたい。
続きはまた今度。
いやしかし。
根っこ探しの手順ってどういうもんなんだろう。
精神分析とかってどんな風にやるのかな。
表面の土から、遺跡の発掘みたいに刷毛つかって丁寧にいくもの?
あるいは、大き目のスコップ、広く深く周囲の土を全部掘り起こしてから、
少しずつ少しづつ丁寧に根っこをほぐしていくもの?
そもそも根っこなんて見えなくていいのか?
でもなんか、絡まりすぎて気持ち悪いんだよな。
鉢の中でもうパツパツです。
逃げらんないよって、5年前のわたしが言ってきたから、
今日はわたしの逃げ恥記念日。って逃げてどうする。
気が向いたときに堀り堀りしてみて、これからの人生にも携えていくものと、もうこれとはおさらばだね、が選べるヒントにしたい。