別の事に時間を費やす

最近私は喉風邪を引きました。喉から下りてくる緑色の痰をひたすら吐き出すという繰り返しの毎日を送っていました。31年生きてきて初めての出来事だったので友人に相談したら「最悪だね」という感想を頂きました。
内科でもらった多くの薬を飲み、喉風邪が治ったと思いきや、今度は手首が痛くなりました。これも初めて自分の肉体が体験した痺れでした。
整形外科に行き、湿布をもらい、なるべく手首を労わりながら繰り返しの毎日を送り、現在は治りかけてきたところでジム通いも再開できています。良かったです。

東洋医学の教科書ともいえる文献『黄帝内経(こうていだいけい)』には、「女性は7の倍数」「男性は8の倍数」の年齢の時に節目を迎え、体に変化が訪れるという記述があります。

https://www.yomeishu.co.jp/x7x8/baisu/

私は来年32歳になる男性です。来年私の体は一体どうなるのか、楽しみですね。


ところで話というものは急に変わりますが、SNSを見ていると、不特定多数の生活や思いやニュースを見ることができますよね。自分にとっては全く以ってどうでもいい情報までもランダムに見ることができ、全く以って多くの情報を仕入れることができます。
お気持ち表明、重箱の隅をつつくようなご意見、誰に向けたかわからぬ謝罪、不要な広告。

まあ、これが疲れる。気持ちが疲弊する。
私のTwitterのミュート数を打ち明けますとようやく600に到達したのですが、こんなに見えないようにしてるのに、まだ見たくない情報が見えてしまうのです。
なぜ疲れてしまうのかは理解していて、他者が発信した内容に対して、なぜこの人はこれを発信したのかと、経緯を推測してみる癖があるからなのです。
それはやがて激しい思い込みに変わります。
そして強い自意識に苛まれ、一通り思い込みをした後、本当のことはわからないからもうやめようと落ち着くのです。

ですが、仕事だとこの癖が少しだけ役に立つことがあります。先回りしてみたり、結果的にほれ見たことかという状況によく遭遇するので要所要所で役立つのですが、それ以外はそんなに役に立ちません。
総合的に見て、自分を制限して行動範囲を狭めてしまうと感じています。

「じゃあSNSやめれば?」という貴重なご意見が発生する懸念がありますが、別にやめません。私が勝手に繋がっていたいと思う人がいるし、中には楽しくて嬉しいこともあるのです。
そこで、少しSNSから距離を置いてみることにしました。


つぶやきも週に3回まで、リプライは顔見知りの人だけ返す。
インスタはクローズにしているので、今まで通りストーリーとか載せる。
ちょっと嫌かも!とか、これ以上は広がらなさそうだし脱線するかもな、と思った人からの連絡は返さない。
好きにリプライやDMを送るお相手の自由もあるのだから、同じように返さない自由だって私にあってもいいはずですね。

代わりにそのSNS時間をゲームと映画に費やしてみました。あと温泉。

ファイアーエムブレムは本当に集中できます。索敵マップなんて一挙手一投足に気を配らなければならないし、推測や思い込みなどは皆無です。
映画に対しては、推測や思い込みは考察として変換できますので、いくらだって思いを巡らせても疲弊しません。(でも映画「怪物」はとても疲弊しました)
温泉に入るときはスマホを持ち込めませんので、強制的に遮断することが可能です。それに温泉は気持ちいいし肌がスベスベになり嬉しい。そのあとご飯食べて昼寝してもう1回お風呂入って、最後に飲むビールがこれまたおいしくて嬉しい。
あと最近分かった事なのですが、温泉やサウナに入って気持ちを整理するようなことは、私には出来ないということです。気持ちいいな~とか暑いな~とか単純なことしか思えません。

自由時間の使い方を少し見直しただけで、結構気持ちが軽くなりました。費用対効果としては結構良いかもしれません。
こんな簡単な方法で気持ちが軽くなるのだと、もっと早めに自分に教えてあげたかったですね。


様々な考え、感じ方、得手不得手があっていい。それぞれが正解だと思って行動して、お互いを尊重して答えを出せることが、一番気持ちが良い環境と私は考えます。
ですが私は多様性という考え方の意味が、恥ずかしながら今でも完全にわかりません。
聞く前にてめえで調べろ、ということで、多様性のWikipediaを開いてみました。すると最初の一文にはこう記されていました。

多様性(たようせい、: diversity)とは、多様性ということである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7

多くの情報を集約するWikipediaだってこれです。
むしろ、Wikipediaは多様性のことを完全明確に理解できているからこそのこの物言いかもしれませんし、一言では言い表せないということを最初の一文で表しているということかもしれません。
いつかわかるようになれればいいな、と思いつつ、いずれあってないような言葉になってほしいと願いつつ、今は少しだけ己の視界をぼやかして、ふわふわと年末年始まで乗り切ろうと思います。

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