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10月18日の日記

ここ最近ずっと考えてることがあって、言葉にすることも難しいし言葉にすることの暴力性というのも大きいなと感じて、しばらくnoteの日記を書けずにいた。

最近自分の視点が裏返ってきているのを感じる。友人や家族に起きたさまざまなことに影響を受けたり、恐らく自分の健康状態にも影響を受けてるんだろうな(ホルモンの影響も大きいのかも)。

色々考えた結果、多分今までと同じ生活を続けることになるんだろうな、とは薄らと思う。

考えていること自体が疲れるし苦しい。考えずに生きていけたら良かった、とも思うけど、考えた先にはきっと心の成長もある。と思いたい。
なにも考えずに生活していたって、あぁ少し心が成長していたなあと感じることだってあるのだから。

錯覚かもしれないけど、最近そういう気付きがあった。
損得勘定とかなしに人に優しくする、て当たり前みたいなこと、きっと皆とは言わないまでも世の中の多くの人が家庭や学校や職場で自然に学ぶであろうこと、それでも私はその感覚がわからなくて、ああ人として欠けているなぁと思っていたけど振り返ればここ3〜4年でその「優しく」機能がようやく私にも搭載されたのではないかな、と。

”損得勘定とかなしに”とは書いたけどまぁ好きな人が幸せだったら自分も嬉しいし幸せだし、ていう自分のエゴではある。10年前とか、下手すると5年前とかも、こういう感覚は非常〜〜〜に希薄だったよな。自分自分自分ばっかりで。今だってうっかりしてるとそうなるし、この先もきっと。ああでも「優しく」をこの先決して失いたくないし、失わないでいられるような環境に自分を置き続けたい。(ちなみに湧いてくる優しい気持ちは、対”好きな人たち”に限定したものなんだけど、ここは無理して広げなくてもいいと思ってる。無闇に傷ついたり傷つけたりしないために、線引き大事。)

一緒に生活している夫の影響もきっと大きいのだけど(惚気のようですが、毎日一緒にいる人の影響って本当大きい)、それでも、この「優しく」機能搭載の気付きから、ああ人ってなにをしていなくても生きているだけで自然と学びとか積み上がっていくものがあるんだなあと感じた。

前述したように考えてること自体が疲れるし苦しいそんな日々だけど、きっとここから得られるものもあるし、考えて考えて決めたことなら、それでも後悔はあるだろうけど、でも、考えないで生きていくよりずっと良いと信じたい。

元気にやっております。

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