犬王感想 執着は愛ではない

Noteさん使うのメッッッッチャ久しぶりですね…。

仏教は執着をなくせと説く宗教である、なんてことはググればすぐ出てくる常識なわけで、犬王の時代においてもそれは常識だった。能楽においてもその価値観は一貫して語られている。

友魚の母は「なして、なして」を繰り返す。犬王の父は得られるはずだった至高の存在になる夢に囚われ続ける。執着は希望でも悲劇でもなんでもない。強すぎる執着は停滞となる。それは永遠に一つのところで足踏みするだけの人生を作る。
友魚は犬王を物語ることに執着しすぎてしまった。それがあのラストを生んだ。

犬王を語ることで友魚は大人に、人間になった。友一となってから彼はたくさんのものを得た――名が売れ、独立し、女にモテて、アイデンティティを確立していった。琵琶法師の友一であった時代が、彼の最盛期だったと言えるだろう。

犬王は自分で自分を人間にした。彼が歌い踊るのは本能的なものだ。兄たちの稽古を真似ることは、誰に強制されたわけでもなく彼自身がやりたくて選んだことだ。
犬王は友魚によって人生の目的を知る――平家の亡霊を慰めること。それもまた、彼が自分で自分に定めた目標だ。呪いを解くこと。
犬王にとって歌も踊りも人間になるための手段だった。手段に必要な才能は、唯一持っていた肉体に付属していた。だから彼は、何かに執着する必要などなかった。最終目標は一本道で定まっていたのだから。犬王が得たものは一つきり――己の完璧な肉体だけだ。

二人の間にはかけがえのない絆があった。友情があった。同じ物語を演じることで魂は結びついていたが、決して一つの魂を共有していたわけではなかった。

「俺たちはここに有る」こと、友有であることに執着しすぎた友魚の想いがカルマを作り出し、自らを呪縛した。彼の生きる目的は犬王を物語ることだった。その処刑のあと、とうの犬王がその歌と踊りを捨ててしまえば、もはや彼の方から犬王を探すことさえかなわなかっただろう。
処刑のあと、執着だけが残った。それは600年もの間続いた。生きることが歌うことだった。犬王が「有」れば、友「有」もまたそこにいたのに。
最後の最後で彼は叫ぶ――「しょせん、壇ノ浦の友魚!」。一番ちっぽけでなんの技能も社会的地位もなかった時代の名前を認める。だからどこにも行けずに600年も彷徨うはめになったのだ。生きることが犬王を歌うことだったという彼の人生の根幹を、友魚という名前そのもので認めてしまったんだから。

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