駄文/奥行きのクオリア

気が向くと、夜中に瞑想している。
瞑想中は目を閉じている。目を閉じているのに、映像が見えることがある。何も見えていないのに、そこに奥行きがある、とはっきりわかる時もある。
初めて奥行きを感じた時、気づいたことがある。

自分とは、脳を含めたこの体のことで、皮膚によって外界と隔てられている、という二元論によって支配されている、僕ら大多数の世界観は、
この3次元空間は過去から未来へ向かって時間の中を流れていく、というものではないだろうか。

でも、本当にそうだろうか。

瞑想を終えて、目を開ける。コップがそこにあり、コップまでの距離を感じる。自分とコップの間に、空間を感じる。つまり、奥行きを感じる。

でも、目を閉じていたのに、奥行きが「見えた」のだ。何の対象も必要としない奥行きが。そして、その時「見えた」奥行きが、幻であることは明白である。
(視覚障害者が聴覚と触覚(肌に触れる空気の圧)によって空間認識するのとはまた別。)

何を言いたいのかというと、
この世界には、本当は奥行きなんてないんじゃないのか…ということ。

覚めた意識状態で、瞑想中に奥行きが「見えた」ことを持ち出すまでもなく、
夜見る夢の中で、僕らは奥行きを感じているはずだ。その奥行きが幻であることを、誰も否定できないだろう。夢なのだから。

わかりにくいと思うのでもう少し説明を加えると、

例えば、赤いコップがそこにあるとする。その赤は、コップの側にはないのだ。コップに反射した光が脳で処理されて初めて、コップの表面に「赤み」のクオリアが出現する、ようにみえる。

例えば、ひなたぼっこしているとする。あたたかい。そのぬくもりは、宇宙空間には存在しないのだ。太陽光線が皮膚に届いて、脳で処理されて初めて、そこに「ぬくもり」のクオリアが出現する、ようにみえる。

「赤み」も「ぬくもり」も実在ではないのである。
これと同じことが、「奥行き」についても起こっていることに気づいたのだ。つまり、

3次元空間は、無い。

(時間については今回は取り上げません。刹那生滅という言葉がヒントになりそうです。)

でも脳はあるんでしょ?という疑問が当然のように湧くのだが、残念ながら…、五感に映るものは全て、実在しない。

(気づきの意識だけが…。)

何がどうなってるのか、さっぱりわからない。わかる、ということは、全て観念上のことだから、宇宙の正体なんてわかるわけがない。言葉でブラフマンに触れることなど不可能なのだ。

それでもおなかは空くから、できれば、安くてうまいものを食べたいです。ラーメンと半ライスでいい。

※0902に「奥行きについて」から改題しました。

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