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誰しもが、なにかの役に立っている。って綺麗事じゃないかも

農作業中にときどきポッドキャストを聴いてる。(夫婦で農業バイト中)
最近知ったのがヨガや瞑想について教えてくれたり、いろんなことをアーユルヴェーダの観点でお話してくれたりするナカタリツコさん。
彼女の落ち着き、物事の捉え方、落とし込み方がとても素敵だなと思ってちょっとファンになっている。
そんなリツコさんのポッドキャストを聴いていると、あるときこんなことを言っていた。(※覚えている範囲でざっくり意訳)

とてもとてもショックな出来事があって時間が止まったように感じる日々を過ごしていた。入院中のある日、トラックがバックする時の音(ピー、ピー、ピー、バックします)が聞こえてきて、「ああ日常はちゃんと動いていたんだ」と安心した。救われた。なんの意味もないようなことでも、必ず誰かの役に立っているんだよ

ナカタリツコさんのポッドキャストから意訳

というようなことを話されていて、ああー、うんうん。そういうときある、確かにね。うんうん。って思った。

リツコさんのことばの余韻を感じながら、農作業。
最近はレモンの木の剪定。
ひろくん(夫)はメインで剪定をしていて、ノコギリを使ってバリバリ切りまくっている。1mぐらいの大きな枝(もはや小木サイズ)もある。
わたしは彼が切り落とした枝を、剪定バサミでさらに細かくしていく人。
一見"役に立っている"のはひろくんの作業で、わたしの作業は誰にでもできて、すごく地味なもの。だけどこのとき思ったんだ。
わたしが細かく切っているから、みんなが安心して、怪我なく畑を歩けるんだよねって。
すごく小さなことだしばかっぽいかもしれないけど、本気で思った!

いま働かせてもらっているところは、男女で仕事の割り振りに差があって、それは体格や体力の差を考慮しているのももちろんあるんだろうけど、けっこう男尊女卑な発言をされたりもする。
だから、自分は役に立たないなーとか誰にでもできることだよなーとか、何してるんやろーって思うことも少なくなかったというのが本音。(本当に自分が苦手・下手な場合もある。。。)

でも、リツコさんのポッドキャストを聴いてから、自分も役に立っているよねって思えるようになった。
男尊女卑発言問題は、それはそれでまた別の問題なんだけど、とりあえず、自分の仕事にも価値があると思えるようになった。ちょっと成長。うれしい。

そしてね、先日いしかわゆきさんの「書く習慣」という本を読んでると、そこにもまた同じような内容が書いてあった・・・!(※覚えている範囲で意訳)

どれだけしょーもない日記だとしても、恋人と別れたばかりで悲しみまくっている人が読んだら、ププって笑えるものになるかもしれない。

「書く習慣」より意訳

ほっほう。またまたこんなこと。そうだよねうんうんうん。
リツコさんポッドキャスト→農作業中に感じたこと→ゆぴさんの本、と表現の仕方は違えど3連チャンで同じことを言われた気がして、なんか、すごくメッセージ性を感じた(勝手に)。そして腑に落ちた。

つまりね自分ではなんの意味もないと思っていることでも、役に立っている、役に立つ可能性があるということ。
たとえ「誰にでもできること」だったとしても、「だから役に立たない」とはイコールにならない。
自分や自分が生み出したものの価値を決めるのは自分じゃないということ。
アドラーの「嫌われる勇気」もそういうことだったよね。
好きになるか嫌いになるかは相手次第であって、それは自分が決めることではない、コントロールできることではないって。そう管轄外なのよ。
だから自分がどんな人間か、勝手にネガティブラベリングするのはやめようね。

きっと誰かの、何かの、役に立っている。
自分が知ることはなかったとしても、誰かの助けになることができる。きっとね。

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