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アロマンチックが呪縛になるとき

恋愛感情がわからない性質を、アロマンチックというらしい。4~5年ほど前に知ったことばである。NHKで放送されたドラマ『恋せぬふたり』はそのアロマンチックをていねいに扱った作品だった。マッチングアプリを覗いてみてもプロフィールにこの単語を並べている人は少なからずいる。まだ世の中に広く浸透している言葉/概念とはいえないかもしれないけど、そういう類いの人間は確実にいる。あるいは、そういう類いの人間である、という認識・区別として役立っているじゃないだろうか。「ない」とされていたものが言葉によって「ある」となるのは、一面的にはよろこばしいことだ。

一方で、アロマンチックという言葉に自分を押し込めてしまうと、その定義の外に出づらくなってしまう。そうじゃないかもしれない選択肢を閉じる、とでもいおうか。言葉によるラベリングが、自身を規定してしまう。そのせいで、自身を苦しめることだってある。

人はつねに変容の可能性を秘めている(それもまあ「訂正の力」かもしれない)。と言ったら、格好つけた表現だが、たしかに否定できない事実ではある。ストレートと自認していた友人がゲイへと変わったり、ストレートだった子がバイになりまたストレートに戻ったりと、自分の身の回りを眺めるだけでも、性質あるいは趣向というのは変化し続けるものだと学びとれる。

Netflix『セックス・エデュケーション』では、驚くほどに登場人物たちの性自認の変わる様子が描かれている。だからこそ、一度これだと自分を表す言葉を選び、決めつけ、首からかけるように説明するようになる怖さはある。

そういったことを踏まえて、ぼくはおそらく”アロマンチック気味な性質”なのだと思うのだが(ちなみにアセックスではない)、あくまでその分類はただの単語でしかない。その一語で自分のすべてを表現できるわけでもない(「日本人」と一語で人のあれこれを括れるわけがないように)。

雑にいえば、言葉なんてどうでもよく、自分の性質と、その性質がどう形成されてきたのか、対人関係においてどういう反応をみせるか、どう変化しうるのかが知りたいだけだったりする。言葉の力を感じるからこそ、言葉から離れる・手放すことができるか試されてると思うのだ。

依存した「何者か」に身を委ねたいとも思わない。自分という人間を構成する要素ってはいくらでもあるわけだし、その要素の複雑な掛け算が「わたし」なんだろうし。

だからか、「アロマンチックなんです」と堂々と言えない。恥ずかしさとかが理由でなく。いや、そもそも言うつもりがないのか(前提として、こういう話をするのが”カミングアウト”という意識は特にないーーー昨日何食べた?に対する返事くらいの感覚)。だって、その性質は断定できるものじゃないから。そう「かもしれない」と心中で転がし、疑り、定期チェックするくらいがちょうどいい。

ぼくの場合、おそらく自分を実験モルモットとして考えているようで、「観察したい」気持ちが強いのだろう。そんなんでパートナーができるのかよ、と前途多難であることは間違いないけど(実際もう7年近くお付き合いしてる人がいないわけで)、まあこんな曖昧さに漂う自分でもうまくは付き合っていきたいし、ゆらぎをおもしろがるしかねえよなとは思うわけです。

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