『世界滅亡の十年後』

 新幹線を降り、品川駅のホームに立つ。東京に来たのだ。十年前憧れたこの場所は、社会人三年目の月の給料の少しを使えば、二時間半で呆気なく届く距離にあった。外回りの山手線に乗り換え、新宿駅に到着したのは十三時過ぎだ。
 改札を出て表示を見ると南口と書いてある。歩道の端に横断幕を掲げ、未だ終わりの見えない感染症について、何やら口角泡飛ばし語っている人が居るのは、関西の大きな街と何も変わらない。地図アプリを開いて確認すると、目的地である結婚式場は東口の方らしく、ここからは少し歩く必要があるらしい。
 少し余裕をもって出てきたので、予定の時刻まではまだ二時間近くある。昼食も新幹線内で簡単なものを食べて済ませたので、特にやるべきことは無い。やや曇っているせいか、暑さはそこまでだ。時間潰しも兼ねて、周囲を少し歩き回ってみることにした。
 土曜日の昼間というだけあり人通りは多い。流石は日本最大の都市、その中心部の一つだ。この駅以外にも、幾つも匹敵する規模の駅が決して広くない二十三の区の中にひしめき合っているという事実には恐ろしささえ覚える。しかしこれが首都という存在なのだ。圧倒的に巨大な、東京という名の街。
 十年前、中学三年生だった私、いや私たちは、この街にどうしようもなく強い憧れを抱いていた。
 少なくとも気候の上において、関西の夏は九月に入ってもしばらく終わらない。特に二〇一二年は、近年稀に見る残暑だったらしい。だから一日と二日が土日だったせいで三日にずれ込んだ始業式の日も、まだ最高気温が三十度を越える真夏日だった。しかしこの日の私の学校への足取りが重かったのは、気温のせいではなかった。
 夏休み終盤にあった花火大会に、私は当時好きだった男子を一緒に行こうと誘い、そこで告白して見事に振られたのだ。確かに私より可愛い女子なんて幾らでも居たし、彼は人気者だったので、今思うと振られたのは仕方なかったのかもしれない。しかしそれだけでなく、どうやらその男子は私の告白を友人たちに面白おかしく共有したらしく、受験のために通っていた塾で、同じ中学の生徒に噂されているのを耳にしてしまったのだ。失恋した上その相手に笑い話として消費されたという出来事は、十五歳の少女が学校に行くのを嫌がる理由としては十分だった。
 平気そうな顔をして家を出てきたものの、何度も足が止まる。赤信号に引っかかる度に、このままずっと青に変わらないでほしいと念じる。当然一分ほどで赤が消えて青が点灯し、前に進まざるを得なくなる。そうして通学路で最後の横断歩道まで辿り着き、そこで信号待ちをしていた時のことだった。
 後ろから笑い声が聞こえて、私は全身を硬くする。振り向くと、同じ学年の男子たちだった。彼らが笑っていた理由が、私を話題にしていたからかどうかは分からない。けれど、その笑い声を怖いと思ってしまったのが全てだった。それだけで、私が学校へと歩を進める力は完全に失われた。逃げ出すように来た道を引き返す私は、すれ違う他の生徒たちから奇異の目で見られていただろうが、そんなことを考える余裕などなかった。
 目についた停留所にちょうど滑り込んできた駅前行きのバスに乗る。家に帰る気にはならなかった。優しい私の親なら欠席を許してくれただろうが、悲しませたり不安がらせたりしたくなかったのだ。学校から親に連絡が行く可能性は、この時の私の頭からは都合よく抜け落ちていた。
 駅から伸びる下り坂を歩いていくと、日本で一番大きな湖に突き当たる。平日の朝なんて時間帯にここを訪れる人なんか、せいぜい犬の散歩をしているお年寄りか、ブラックバスを狙う釣り人くらいのもので、後はわずかに波音が聞こえるくらいだ。この湖ほどの大きさになると、海でもないのに波が生まれるらしい。ベンチに座って視界一面に広がる水を見つめていると、ふと、視界の隅に見覚えのある白いシャツを捉える。自分も同じものを身に着けているので見間違えるはずもない。うちの中学の女子制服だ。彼女は湖岸に腰かけて、足を水の中に浸し、自分の足の先を見つめていた。見ると、彼女の横には、中に靴下が詰められて丁寧に揃えられた靴がある。
 不意に振り向いた彼女と目が合う。服装だけでなく、その顔もまた見慣れたものだった。
 相馬遥。私のクラスメイトだ。
「立花さん? えーっと、立花未来さん」
 先に口を開いたのは彼女の方だ。
「えっ、と、相馬、遥さんやんな?」
 思わぬ級友との遭遇に面食らっていた私は、ぎこちない返事をすることしかできなかった。相馬さんと言えば、定期テストでは毎回三番以内に入っているような優等生だ。県下でぶっちぎりで最難関の高校の特色選抜にも余裕で受かるだろうと言われている。そんな優等生が今この時間に学校以外の場所に居るということは、つまり彼女も私と同じことをしているという訳で。
「立花さんもサボり?」
「え、いや、そういう訳とちゃう……こともないけど」
 またしても先を越された上に、彼女が「サボり」という言葉選びをしたせいで変に罪悪感が生まれて、また歯切れの悪い返事をしてしまう。
「宿題終わらんかったん?」
「いや、そういう訳じゃないねんけど」
 新学期うつという言葉が世間に浸透する前、始業式に学校を欠席するということは、宿題を終えることができなかったのだと見做されていた。日頃の行いが良い相馬さんはともかく、私は今頃担任やクラスメイトから劣等生の烙印を押されていることだろう。
「なら私と一緒や」
 やはりというべきか、相馬さんは宿題を終えているらしい。しかし、
「一緒ってどういうこと?」
 まさか相馬さんも失恋でもしたのか。
「いや、立花さんも全部ほっぽり出したくなったんかなって」
 全部ほっぽり出したくなった。それが彼女のズル休みの理由らしい。
「いや、そういう訳でもないねんけど」
「なんでもええよ。あ、そっち行っていい?」
 そう言うと、彼女は水から足を上げ、鞄から取り出したタオルで水分を拭って靴下と靴を履くと、つかつかと歩いてきて二人掛けのベンチの空いている方に座った。
「なあ、『全部ほっぽり出したくなった』ってどういうこと?」
 正直なところ、私には彼女のさっきの言葉の意味が理解できていなかった。頭脳明晰な彼女のことだから、きっと深い意味があるのだとは思っていたが。
「あー、うちお父さんが厳しいんよ。勉強勉強て」
「うん」
 聞けば、相馬さんの父親は高校の先生で、特に学業には厳しいらしい。だから嫌でも勉強させられた結果の今の成績なのだという。てっきり自発的に好成績を修めていたものだと思っていた私には意外で、また今までどこか距離感のあった彼女に俄に親近感が湧いてきた。
「それでなんか、今朝起きたら全部嫌になってさあ。休ませてもらえる訳無いから学校行ってくるって言いながら家出て、そのままここ来てもた。ほら、水見てたら、なんか心が洗われるっていうか」
 それが彼女のズル休みの理由の全貌らしい。今まで同い年とは思えないほどしっかり者に見えていた彼女は、蓋を開けてみれば私と同じ、ごくごく普通の十五歳の女の子だった。
「私も、なんか今全部嫌になってるわ。実はさ、告って振られたの本人にネタにされてさあ。それで学校行くの怖くて」
 自分でも驚くほど自然にそう言って、一瞬遅れて我に返る。慌てて「馬鹿らしくて笑うやろ」と照れ隠しに言うが、彼女は真剣な表情で私の言葉を聞いていた。
「真面目に告ったのに馬鹿にされたってことやろ。それは嫌やわ」
「そう? ……ありがとう」
 大真面目に肩を持ってくれたその言葉に私は上手く反応できなくて、そんな気の抜けた返事しかできなかった。会話が途切れ、しばらく二人で目の前の大きな水溜まりを見つめる。
「……なあ、マヤ文明の予言って知ってる? 今年人類滅亡するってやつ」
二〇一二年の一二月二一日、人類が滅亡する。テレビや学校で、近頃頻繁に聞く話題だ。突拍子もない話だが、去年東北の方であった大きな地震もあって、妙に嫌な実感を持った都市伝説だった。
「うん。なんかもうその方がいい気がするわ」
 少なくともこの時の私には、もう世界丸ごと無くなってしまった方が、噂されるよりもマシだと本気で思えた。
「……私も。もう皆一緒に死んだらええのにって、たまに思う」
 そう言う相馬さんの目の奥には、まるで遭難した山の中で仲間を見つけたみたいな喜びと安心があった。私の目も同じだっただろう。希死念慮に似た破滅的な感情が、思春期には決して珍しいことではないことをまだ知らなかった私たちは、この時お互いを、自らの絶望を共有できる唯一の相手だと思っていた。
「大学になったら家出て、東京行って好きなことしたいと思ってたんやけどさ。どうせお父さんが許してくれへんし」
「じゃあさ、行こ。東京」
この時の私は、ごく自然な発想としてそう考えた。
「え、行くっていつ」
「今から。どうせ一二月には死ぬんやし」
 そうすれば、何かが変わる気がした。東京という街は不思議だ。都会というだけなら、それこそ近場でも、京都や大阪や神戸や名古屋がある。しかし、やはり日本の首都であるあの街は格が違うような気がする。関西の片田舎で生まれ育った私にとって未踏のその土地は、テレビの中に出てくる別世界であり、また望むものすべてがある理想郷だった。それに、どうせ今年で世界は滅ぶのだ。多少思い切ったことをしようが大したことではない。その割には、失恋を噂されたことについては些事だと思えなかったが。
「……お金あるん?」
 そう不安げに聞く相馬さんの声には、しかし賛同の色が含まれていた。
「一万円ある。相馬さんは?」
 財布の中身を確認すると、当面の塾で食べる夕食代だと昨夜渡された一万円が入っていた。
「私もそのくらいある。行けるかな」
「新幹線は無理やけど乗り継いでいったら行けると思う」
県の一番北から岐阜に出れば愛知県まで行けることを、家族で名古屋まで遊びに行った経験から私は知っていた。こうして私たちの無謀な旅が始まりを告げたのだった。
「東京着いたら何したい?」
 二人で乗った新快速米原行きの中で私がそう聞くと、彼女が真っ先に挙げたのは新宿に行くことだった。あの、東京でも一番か二番だかに大きい、日本一かもしれない大都会。
「好きなアーティストがさ、デビュー前に新宿で路上ライブしてたんや。だから行ってみたい」
 そう言って彼女は音楽プレーヤーでそのアーティストの曲を再生すると、イヤホンを片方、私の耳にはめてくれた。
「いいやろ。めっちゃ好きなんや」
 よくあるヒット曲とは違った、どこか諦念を含んだような歌詞は、確かに私たちの心のどこかに届くものだった。
「私もさ、東京行ったら歌手になりたい。ギター持って、弾き語りしてさあ。まあまだ弾けへんしそもそもギター持ってへんねんけど」
「なれるって、相馬さんなら」
 無根拠に、無責任にそう言えたのは、その瞳の奥に、心の底からの憧れを見たからだ。
「そうかなあ。けどどうせ今年で世界滅亡やし」
「そうやな。それは残念やな」
 二人ともそこまで残念そうではない声色でそう言う。世界が滅んでしまえば、彼女は歌手になれない。だけど、歌手になれなかったという結果にぶつかることもない。
「あの、そう言えばさ」
 どこか言い淀んだ様子で、相馬さんが私のイヤホンがついていない右耳に話しかけてくる。
「……何?」
 何か深刻なことでも告げられるのかと、恐る恐る彼女の左耳に聞き返す。
「ミライって呼んでもいい?」
 なんだそんなことか、と思わず吹き出してしまう。なんで笑うんよ、とどこか不服そうな彼女の様子が面白く、ますます笑いが込み上げてきた。
「いいに決まってるやん。改めてよろしく、ハルカ」
 笑いながら、私はハルカにそう言った。
米原で電車を乗り換えた私たちは、今度は東京に対しての互いの想像を思い思いに語った。
「芸能人会えるかな。ジャニーズとか街歩いてへんかな」
「原宿で歌手の誰々見たとかあるらしいで」
「スカウトの人とか居るんかな。ほら、ハルカ可愛いし声かけられるかも」
「いやー、それは無いやろー」
 聞けばハルカもまた、東京に足を踏み入れたことは無いらしい。他にも私たちは、まるで東京に行けば全ての願望が叶うかのように、都合のいい妄想を延々と語り続けた。そうして二人だけの理想の大都会を形づくる作業は、電車が静岡に入っても途切れることは無かった。
「なあ、大丈夫かな」
 車内に仕事帰りの社会人が乗り込み始めた頃、ハルカが不安を隠せない様子でそう言った。
「大丈夫って何が?」
「東京着いて、それからどうしよ」
「え、どうするって、さっき言ってたみたいに色々」
「着くの夜やで。どこ泊まるん」
 ハルカのその言葉は決定的なものだった。お互い考えないようにしていたことだ。それに私も、さっき電源を切った携帯電話に何件も溜まっていた母親からの不在着信を見て、いたたまれなくなってきていた。
「帰ろっか」
 どちらからともなくそう言って、熱海という聞いたことのある地名の駅で降りて、来た道を逆方向に戻る電車に乗る。
「ごめんな」
 申し訳なさそうにハルカが言う。
「いいよ。それにもうどうしようもなかったし」
本当は、自分たちがしていることの愚かしさなんて分かりきっていたのだ。どこで夜を越すかは当然、帰りの交通費をどうするかすら、私たちは考えていなかった。
「どうしよ。帰ったら絶対お父さんにしばかれるわ」
「私も絶対怒られる。塾も行かんかったし」
 二つ折りの携帯電話の電源をつけて画面を開くと、不在着信が更に七件入っていた。
「まあどうせ、今年で終わりやし」
「そうやな」
 世界が終わるなんて嘘だというのも、私たちは知っていた。当然その年の十二月二十一日、二学期の終業式の日が来ても世界は何事もなかったし、私たちはそれに心のどこかで安心した。その数日後、選挙で後に史上最長の在任期間になる総理大臣が誕生して、年が明けて私たちはそれぞれ別の高校を受験し、卒業と同時に離れ離れになった。折角得た友人と、私たちはあの日以降ほとんど話さなかった。連絡先を交換していないのに気付いたのは、高一の五月だ。
 親元を離れ、勤務先のある大阪に住んでいる二十五歳の私の元に、結婚式の招待状が突然届いたのは六月のことだった。新婦の名前と括弧つきで書かれた旧姓の組み合わせには見覚えがある。きっと同級生伝いに消息を追ってまでこれを送ってきてくれたのだろう。二〇二二年九月三日土曜日という式の日付を見て、この偶然に彼女は気付いているだろうかと、思わず笑みがこぼれた。
「こういうの、来ないと思ってた」
 それが、新宿の式場での、新婦から私への第一声だった。お色直しを済ませた新婦——ハルカが、出席者に挨拶をして回っていた時のことだ。だから私は彼女に、「そっちこそ結婚とかするキャラじゃなかったやん」と返してやる。この会話は私たちにとって、十年という歳月による互いの変化を受け止めるための儀式でもあった。
「元気だった?」
「それなりには」
 ウエディングドレスからノースリーブの涼しげな青いドレスに着替えた彼女の腕には、赤ちゃんが抱かれている。
「何歳になるん?」
 どこか母親に似た、小さいがくりっとしたその子の目を見つめながら聞く。
「まだ八カ月になったとこ。籍は一昨年には入れてたんだけどさ。ほら、あんまり人集めるのもなって。そしたら先にこの子が生まれちゃった」
 そう言って照れ臭そうな笑みを浮かべる、律儀にマスクを着けたハルカの目元は、やはり彼女の腕の中の赤ん坊のものと似ている。
「そうなんや。可愛いなあ」
「ありがと」
久々に会った知己を相手にした時特有の、距離を探るような会話だ。程なくして、どちらからともなくその不毛さに気付いて黙り込む。会場の喧騒と、時々聞こえる喃語だけが耳に響く。
「中学の、あの時ぶりやんな」
 先に沈黙の重さに負けたのは私の方だった。
「あれから十年かあ」
 そう懐かしむように返すハルカの声から、ほとんど関西の訛りが無くなっていることに今更ながら気付く。
「そう。あれからちょうど十年」
私たち二人にとって、「あの時」「あれ」が指す時期は一つしかない。あの、二〇一二年の夏の終わり。
「あの時の私たち、ぶっちゃけイタかったよね」
「そやな。振られてそれ広められたくらいで世界滅べーなんて」
 話しながら、当時のことを思い出して苦笑する。十五歳なんて、今思うと有り得ないくらい幼くて痛々しい。
「まあ、悪い思い出ではないけど」
 私も同感だった。あの時感じていた心の痛みが今の自分を支えていることを自覚できるくらいには、私たちは大人になっている。
「大学入って上京できたんやな」
 新郎新婦の馴れ初めは、お互い親元を離れ入学してきたこちらの大学で知り合ったと紹介されていた。大学受験の際、ハルカは父親と大喧嘩した末、生活費を全て自分で稼ぐという条件で上京を許されたらしい。その彼女の父親も、先程は娘の晴れ姿に涙を浮かべていた。
「実際は、来たとこで何も変わらなかったけどね。嫌なことは地元にいた時と同じくらいあるし、結局音楽もあんまりやらなかったし」
 大学で軽音サークルに入ったハルカは、そこで自分が本気で音楽に打ち込める情熱を持っていないことに気付いたらしい。
「ホント、なんであの時あんなに憧れてたんだろうね」
 自嘲気味にそう言うハルカは、しかし後悔はしていないようだった。
「それも痛さやろ」
 私も自嘲気味にそう返す。さっき街を歩いて分かったが、実際に東京の景色を見ると、あの頃想像していた、全てが輝かしい理想の大都会という印象のほとんどは失われた。確かに絶対的に巨大な街ではあるが、疲れたサラリーマンがとぼとぼ歩き、昼間から酒を飲んだ若者が騒いでいる光景は、その他の多くの街と変わらない。そういう面を見ると、むしろその大きさは偉大さではなく空虚にさえ思える。当たり前だが、所詮は現実の街なのだ。しかし不思議と、その事実は肯定的に受け入れられた。
「あの時、世界滅亡しなくてよかったよね」
 腕の中の我が子を見つめて、ハルカがぽつりと言う。
「けど今、世の中こんなんでさ。あの予言、十年ズレてたのかもね」
 感染症はまだ収まる気配が見えず、近くの国が戦争を始め、あの年総理になった人は銃で撃たれて死んだ。あの地震を当事者として経験していない私の主観では、十年前より今の方が、世界の終わりに近い。
「だとしたら絶対嫌だ。旦那が居て、この子が居て、私今すごく幸せだもん」
 彼女の言葉に黙って頷く。私も、今は充実した日々を送っている。当然嫌なこともあるが、そればかりではないと前向きに考えられるくらいには幸せだ。
「けど、あの時の私たちみたいに世界を恨んでる人が居ても、不謹慎だとは思えないんだよね。多分、必要なことなんだよ」
 今はインターネットで少し検索すれば、子どもから大人まで、かつての私たちのような人が無数に声を上げている。中には他人に当たり散らすような投稿もあるが、私も彼らのことを悪く言う気にはなれなかった。
「なんか私たち、大人になったなあ」
 不意にこぼれたその言葉に二人して笑う。あの頃理想として思い描いていたものとは違ったこの都市で、大人になった私たちは、現実の光景としての、決して完璧ではないその街並みと自分たちを見ている。だが現実のこの街に辿り着くためには、十五歳の青臭い私たちの、痛々しくも愛おしい理想像がきっと必要だったのだろう。この子もいつか同じように悩み苦しんで大人になるのだろうと、笑顔を浮かべる令和生まれの赤ん坊を見て思う。そのためにもこの世界が、誰かが恨んでもビクともしない程度に大丈夫なくらいには平和に続きますようにと、月並みながらも私は願った。こんなことを願うあたり、やっぱり私は大人になったのだろう。

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