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【文芸サークル「お茶代」1月課題:こわい話】逃避行

「知らないところに行こう」と君が言うから、目的を決めずに街を出た。
とにかくきっと、ずっと遠くに行けばいい。君は多くを語らない。だからきっと、それでいい。
本を読むのが好きな君は、フィクションめいた日常を好む。
快速列車を乗り継いで、名前も知らない街に行こう。
運賃は片道分だけあればいい。手を繋いでさえいれば、僕たちはどこへだって行ける。
思えばこれまで、不必要な喧嘩をたくさんしてきた。
君は多くを語らないが、涙は人一倍流す。
僕がこんなことを言うと、君はまた怒ってしまうのかもしれない。
君はとにかく、隙を見せることを嫌がるから。
けれど、周囲に誰一人いなくたって、当たり前にゴミを拾う君の姿を、僕は誇らしく思うから。
僕はずっと、君の味方でありつづけたいし、同じものを見続けていたい。
これからはできるだけ、君の望みを叶えてあげる。だからもう、そんなに思い詰めた顔をしないで。
二人で居れば大丈夫。何があっても、きっと大丈夫だから。

「知らないところに行こう」と言った。とにかく、私たちを知る人間が一人もいない場所に行きたかった。
都会だろうと田舎だろうと関係なかった。私はただ、遠くに行くことができれば、それで良かったから。
本を読まない人だった。見える世界だけがすべての人。だから、本音で話すのが難しかった。
あなたは「ロマンチスト」だというけれど、私はどちらかといえば現実主義者で、過ごした日々のほとんどが的外れの幻想だった。
私の頭の中には膨大な文字があり、考えがあり、感情があった。
けれど、それはどれも言語化できないものばかりだったから、喧嘩をするときはいつも私の一方通行で、多くが「八つ当たり」として処理された。
思えばずっと、誰かが好まれるための「私」を演じていた。だから、それを終わりにしたくて、旅に出ようと言った。
あなたはすっかり満たされていて、余裕をもって私を愛してくれる。けれど私は満たされないまま、気持ちの沈む一方だ。
終りにしたかった。何もかも。誰かのために作られた、都合の良い「私」の人生さえも。

「夜景が見たい」と呟いただけで、いとも簡単にロープウェイに乗ることができた。
あなたはすっかり満たされている。「二人きりの逃避行」という、ロマンチックな状況に。
だからあなたは、私がバッグにナイフを忍ばせていることも知らないし、それを突き刺すタイミングを窺っていることにも気付かない。


「知らないところに行こう」と言ったのは、あなたを終わりにしたいからだよ。
最後の声は木々に吸い込まれ、寒空の中で冷えた刃は、すぐに熱く、生ぬるくなった。

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