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「おやすみボックス解禁」に基づく思考実験

わが国でも“おやすみボックス”がついに解禁された!
が、それがなんなのかわたしにはよくわかっていない。
さっそく届いた小包みを開けてみると、メモの切れ端が一枚入っていた。
文字はさざ波のような筆記体をしていて、おそらくは遠い国の言葉で書かれているようだ。不審に思って送り主の住所を確認すると、それはちゃんと町役場の広域保健課から届いているのだった。

すべては、職場の健康診断から始まった。
このところずっと残業続きだったので、不規則な生活はもちろんのこと、最近は特に体がだるく、集中力の続かないことが多かった。
何らかの異常はあるだろうと案じていたが、それでも、肝機能や血圧について指摘されるぐらいだろうと、そこまで真剣に考えていなかったから、検査から1週間も経たずに「至急精検」の案内が届いたときには、すごく驚いた。
心配していたγ-GTPやLDLコレステロール、中性脂肪の値は当然のように高かったけれど、一番下にある「ob-X」の値がずば抜けて高く、基準値の上限に100を掛けても足りないぐらい大幅に上回っていたため、早めの再検査が必要なのだという。欄外に「H」がつく程度であれば見過ごしていたけれど、素人目で見ても明らかに異常な数字だったので、すぐに近くの総合病院へ予約の電話を入れることにした。

平日だというのに、病院はかなり混んでいて、待ち時間はとても長かった。こうして待っている間にも、ob-Xはどんどん上昇しているように思えてきて、わたしはずっと気が気でなかった。
そもそも、ob-Xとは何をチェックする項目なんだろう。ob-Xが異常値だったら、どんな病気になるんだろう。一度考えてしまえばどんどん気弱になってきて、その恐ろしさから「ob-X」で検索するのは憚られた。

しかしながら、わたしの心配とは裏腹に、診察はひどくあっさりと終わった。
倦怠感と集中力については多少詳しく聞かれたが、命にかかわるものではないらしい。医師はあっけらかんとしていて、時折ジョークも交えながら、終始和やかな雰囲気だった。
検査が終わったらそのまま帰宅して良いというので、わたしは安堵と不安の混じったなんとも言えない心持ちで、採血と超音波検査を受けた。

以降、検査結果についての説明はなく、不安になって産業医に相談した。
ob-Xの数値が異常に高かったこと。病院で精密検査を受けたこと。その結果が知らされないままでいること。業務のストレスも適度に交えながら、洗いざらい全部吐き出してみると、気持ちが少し楽になった。

「それはそれは……大変な思いをされましたね」
「ええ。まあ、こちらから割と積極的に話をしたので、先生も面食らったんでしょう」
「そうですね。状況を冷静に判断されているから、大丈夫と思われたのかもしれません」
「でも、検査結果が来ないのはどういうことなんでしょう。検査だけ受けて終わり……なんてこと、普通ありえないですよね」
「通常はね。でも、ob-Xに関わる再検査であれば、少し事情が違ってくるんです」
産業医は低く咳払いをして、椅子に浅く座り直した。

「あちこちで報じられていたのでご存じとは思いますが、わが国でも"おやすみボックス"が解禁になったでしょう」
おやすみボックス。確かに、テレビで名前は聞いたことがあるが、興味もなく聞き流してしまっていた。
しかし、企画宣伝部の社員が最近の世情を知らないなんて、職場の産業医に言えるはずもない。
「ああ、そうでしたね。そうかそうか。だったら、しょうがないかもしれない……」
「ええ。ですから、月末までには役場の広域保健課から荷物が届くと思いますよ」

そうして届いたのが、この小包である。
産業医との面談以降、"おやすみボックス"について片っ端から検索したが、ニュースサイトのリンクは軒並み切れており、詳細はわからないままだった。ob-Xとはストレス値を示す新しい指標であるらしく、日々の生活を振り返ってみれば、異常値をたたき出すのは当然だろうと思えた。

筆記体の一部は鉛筆で丸く囲われていて、そこから飛び出た矢印の先に、0から始まる数字が書き添えられていた。
はじめは意味のない羅列だと思って眺めていたけれど、最初の数字が市外局番と一致していることに気が付き、試しにダイヤルをプッシュしてみた。

「アロー」
「あ、もしもし……」
「失礼。日本の方でしたか」
「あの、"おやすみボックス"が届いたんですけど」
「……お待ちください」

片言の、男性の声だった。すぐに「ルールールー」と回線の変わる音がして、次は女性の声がした。

「大変お待たせいたしました。こちらは"おやすみボックス"お問い合わせ窓口です」
「あの、先日検査を受けたらob-Xの値が高くて、精密検査のあと広域保健課からメモだけ届いたんですけど……」
「ご連絡ありがとうございます。それでは、只今より"おやすみボックス"の手続きを開始いたします」
「あ……。その、"おやすみボックス"というのは……」
「手順が煩わしくて申し訳ありません。悪用を防ぐために、いくつかの段階を踏む必要があるのです」
相手の女性は無感情な早口で、クレーム対策なのか殊更にハキハキと喋った。
「今日から1週間以内に、錠剤が6錠届きます。それを、朝に3錠、夜に3錠、水無しで服用してください」
「はあ、水無しで……」
「ラムネみたいに、口の中で溶かすようなイメージです。翌日には効果が現れるかと思いますので、もし変化が見られないようであれば、こちらの番号に再度ご連絡をお願いいたします」
「あの、ええと……それは、飲んでも大丈夫な薬ですか?」
「ええ。以前は規制されていましたが、わが国でもようやく解禁となりましたので」
「解禁になったのは知ってるんですけど。その……"おやすみボックス"って何ですか?」
「地球避難カプセルの別称です。特殊な形状をしているため、対象の方は体型を少し変化させる必要があるのです」
「避難って、どういうことですか?」
「今いる場所よりも相応しく生きやすい、新天地へ旅立つことができるのです」
「体を変化させる、というのは……」
「あなたは選ばれたんですよ。もう少し、喜ばれてみてはいかがでしょうか」
女性は明らかにイラついていた。いまいちピンと来ないけれど、宝くじに当たったようなものなんだろうか。
「はい、あの……ありがとうございます」
「手続きは以上です。何か、ご質問はありますか?」
正直わからないことだらけだったが、埒が明かないと思って疑問を飲み込み、適当な返事をして電話を切った。

4日ほど経った頃、宛名だけ書かれた封筒に入って、3錠ごとにパッケージされた錠剤が送られてきた。ふと仕事のことがよぎったが、産業医も知っているから特に問題はないだろうと考え、わたしは指示通り、錠剤を服用することにした。

"おやすみボックス"導入 問われる是非
国が新たに導入した安楽死制度「おやすみボックス」について、各地で様々な議論が巻き起こっている。一部自治体においては、ob-Xストレス値のみで適性を判断し、対象者に十分な説明を行わないまま強行する例が相次いでいるようだ。実態を受け、野党からは「情報弱者を狙った殺人行為ではないか」「おやすみボックスは"骨壺"であることを周知徹底すべき」といった厳しい声も上がっている。

お茶代11月 ジッケン課題2/おやすみボックス

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