想像力と超能力
まもなく息子が1歳になります。
僕もこの一年で半年間の育休と、職場復職してからの半年と貴重な体験をしたので、改めてこの一年を振り返っていました。そして思ったんです。想像力ってあまりにも無力じゃないか?
てめえでかってに想像しろ…(ベジータ:ドラゴンボール)
奥さんの妊娠がわかってから、子育てに関する情報を集めました。有象無象のネット記事やTwitterに溢れるお母さんによるお父さんへの不満、子どもをもつ同僚への聞き込み調査、などなど。
それらの意見を統合して僕が弾き出した答えは「子育て、めっちゃ大変」でした。
どうやら新生児は夜中も数時間おきに泣いて起きる可能性が高い。だから親は安眠できない。オムツはこまめに替えないといけないし、ミルクも数時間おきに提供しないといけない。洋服もすぐに汚すからたくさん用意しなきゃいけないし、そのほか必要なものもめっちゃある。大変なものだらけな子育て。だが、それを乗り越えられるのは赤ちゃんが可愛いからである。
僕がまとめたものはこんな感じ。で、親御さんだったらおそらく「うん、まあその通りだよね」と思うのではないでしょうか。間違ってはないですよね。
僕も今思い返しても間違ってはいないと思います。けど、圧倒的に足りないものがあります。それは解像度です。
想像を超えてこい(福田達也:アオアシ )
例えば先ほどの
これを例にすると、僕はこの寝れない状態を、仕事で数日徹夜した体験を思い出しながら「二日寝れなかったあの日ぐらいの辛さかな。けっこうやばいな。けどまあなんとかなるかな」ぐらいに考えていたんですね。
実際は全く異なる体験でした。「二日寝ないで次の日はぐっすり寝ることができる」と「毎日2時間おきに起こされるエンドレス」では苦しさの質と量に圧倒的な開きがあります。
このような想像と体験の開きは他にもたくさんあります。例えば、赤ちゃんのウンコって普通に臭いんですよ。「ミルクしか飲まないから臭くないよ」とネットで見かけたことがあります。しかし、これは声を大にして言いたいのですが、赤ちゃんのうんこもしっかり臭いです。うんこって結局うんこでしかないんですよ。
オムツを替える体験も「臭い」というネガティブな要素が追加されます。こういうことが育児のそこここで発生するんですね。このようなたくさんの体験すべてが育児の大変さそのものなんです。
ここで「いや単に事前のリサーチが不十分なだけなのでは?」と思われる方もいるかもしれません。完璧なリサーチをもとに想像力を働かせれば理解できたのでは、と。
確かに、僕のリサーチが甘かったのは事実だと思います。では、僕のリサーチが完璧だったとして、完全に未来の体験を予想することが可能だったのでしょうか。
憧れは理解から最も遠い感情だよ(藍染惣右介:BLEACH)
答えはNOだと思います。やっぱり無理ですよ。例え子どもが生まれる前に先輩パパママに「赤ちゃんのうんこって臭いよ」と言われても、実際にその匂いを嗅ぐまでは臭さを理解するのは無理だったと思います。
「想像する」とは、意識的、無意識的に過去の自分の体験を参照しながら、対象の事柄を自分の理解できる範囲で作り上げる行為を指します。
例えば、「赤ちゃんのうんこの匂いを想像してください」と言われたらどのように想像しますか?
きっと自分のうんこの匂いやペットのうんこの匂いを思い出しながら想像しますよね。自分の体験を元に、そこから「こういうことなのではないか?」と自分の理解しうる範囲でしか人は「想像」できません。
つまり、参照できるような体験がないと「想像」はできないし、その体験も実際の体験ではないのでないので、「想像」はいつも実際を捉え損なうのです。ここに「想像」の限界があります。
百聞は一見にしかず。百見は一触にしかず(範馬勇次郎:グラップラー刃牙)
「想像力が大事」とよく耳にします。ビジネスにおいてはもちろん、最近はダイバーシティの文脈でも。立場や境遇のちがう他者を理解するためには、想像力を働かせることが大切だと。これはまったくもってその通りだと思います。
しかしながら、「想像」はいつも実際を捉え損ないます。想像力は超能力ではないのです。そして不確かな想像力を求め頼るよりも、手触りのある「体験」をもっと重要視したほうがよい。と息子のうんこは僕に訴えてきます。
「想像する」を僕たちが大切にする理由は、その先に「理解する」があると信じているからだと思います。でも、「想像する」には欠点があり「完全な理解」に届くことはほぼありません。想像と実際にはズレが必ず生じます。
そもそも「理解する」とは、想像によって自分が理解できる枠組みに事象を回収することではありません。むしろその逆で、理解したい事象や他者を起点として、そこに向かって自分の枠組みを拡張する営みを指すのではないか。そしてその過程は、自分の考えを破壊するような痛みを伴うものです。
僕は育休中、そのあまりの辛さにいっぱいいっぱいになり、奥さんの前で号泣したことがあります。僕は漫画やアニメといったコンテンツでよく泣くことがあるのですが、自分のことで泣くことはほぼないので、本当に辛かったのだと思います。
今思えば、あのとき僕は育児を「理解」しようとしていました。自分の人生の主導権を他者に握られる感覚を、その辛さと責任を、理解しようとしていたのだと。その過程で自分の枠組みを壊し、痛みが溢れたのだと理解しています。
おっと、ちょっと感傷的になりすぎましたね。いかんいかん。ちょっといい話っぽく書きましたが、こんなに辛い思いをしても僕が育児を理解したかというと、きっとそうではないのでしょう。
「理解した」という考えがそもそも危険だとも思います。常に僕たちは理解し損ねる。そして「僕らが完全に理解できることはほとんどない」という不確実性に耐える姿勢を知性と呼びたいと思います。
と、最後はそれっぽいことを書いて終わりにしたいと思います!赤ちゃんのうんこは臭いぞ!忘れないで!
記事にスキをもらえると、スキになります。