Omatchaになるまで2
続き書いてみますね。
埼玉に来たのは、主人の会社の都合です。
全くの初めての土地。
知り合いもいません。
ハゲを作るくらい、結構な仕事人間だったので、辞めたことで、燃え尽き症候群?っていうんですかね。
やる気もなくなり、風邪もほとんどひかなかったのに、熱も出す始末。。
都内にも行きやすいので、出掛けたりもしていましたが、割りと早い段階で、陥ってしまいました。
何したらいいんだろ。。
このままでいいのかな。
『いつも何してるの?』
この質問が辛すぎて、都内にいるお友達とも会いづらくなります。
新しく仕事しようかなと思っていたのですが、進む勇気もなく。
怖くなってしまいます。
そんな時。
私の祖母が認知症を発症。
東京の祖母宅へ、茨城から通うのに限界を感じていた母。
しっかり者の祖母がそういう症状になってしまったショックもあり、何の知識もない身内がお世話をするというのはとても大変です。
そのタイミングで、手に職もなかったので、ヘルパーの資格をとろうと決断。
内容的に、とってもきつそうだし、私にできるかわからない。
周りからも大変そう。。と言われていました。
でも、私の中では、
究極の接客をやってみよう。
そういう感覚でした。
通学で通い始め、そこでは、年齢関係なく、幅広い世代の方がいて、新しい仲間もできます。
知らないことだらけで、とても役にたつことばかり。
研修も終えて、夜勤もある認知症対応型グループホームで働くことになります。
内容的には、かなりハード。
働いてるスタッフも少なく、毎日、人格が変わるおじいさんおばあさんとのやりとり。
私が子供に見えたり、お嫁さんに見えたり、敵に見えたり。
でも、とてもやりがいがありました。
おじいさんたちを見ていると、その人それぞれの人生全てが顔に出るなと勉強させてもらいました。
中でも、1人のジャズと映画が大好きな可愛らしいおじいさんに気に入られますw
来世では結婚しましょうね!
とプロポーズされたりしましたw
3ヶ月くらい働いて、妊娠が分かり、身体を酷使する職場だったので辞めることになります。
最終日。
そのおじいさんは、機嫌がとても悪く、
見えないんだよ!!
邪魔だよ!! どけよ!!!
その言葉が、最後となってしまいました。
でも、そのあと、出産してから遊びにいったら、スタッフの方から、
そのおじいさんは、私の名前をずっと出していたそうです。
こういう人がいてね、優しかったんだよー。って。
もう、私を見ても分からなかったのですが、
少しでも印象に残ってたんだ。
お仕事やらせてもらえてよかった。
そう思えました。
妊娠出産を終え、働くママになりたかったのですが、ほぼワンオペなので、三才までは、仕事はせずにやろうと、決めました。
二人目出産を終え
二歳差自由男子の育児が始まります。
身体はとても大きいのですが、色々ゆっくり。
気にしなくていいことも気になり始めます。
外で遊ぶときも、二人とも行く方向がバラバラなので、ずっと走ってました。
なるべく人のいない公園を探したり、毎日どうやり過ごすか、全く余裕がありませんでした。
病気もしょっちゅう。
二人とも入院も経験しています。
本当に、毎日がぐちゃぐちゃで、
今思えば、ネタとして笑えることもたくさんあったのに、当時は、大変過ぎて、楽しめませんでした。
二人目が幼稚園にいき始め、やっと自分の時間ができ、何かやらなきゃ!仕事をしなきゃ!とまた変な焦りが始まります。
そして、一本の連絡が入ります。
ちょっと長くなったので、まさかの三部仕立てw
大丈夫ですか?読んでいただけますか?
Omatchaになるまで3へ、つづく。
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