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トンボ雑感 -17歳のスケッチ-

 (高校生の時の自分の作文を、現在にそぐわない表現だけ校正しました。謂わば最初のスケッチです。)

 毎年夏になると八ヶ岳へ行き、夏中を過ごす。
 山にはトンボがいる。沢山いる。今年はトンボで生物のレポートを一つ仕上げてやろうと思っていたから、特によく見た。標高が1200m位のところなので、夏を山で過ごすというアキアカネ、俗にアカトンボと、翅の先の黒いノシメトンボというのが、ほぼ6対4の割合で飛び回っている。

 トンボを素手で捕る方法をご存知だろうか。無論オニヤンマとかギンヤンマとかの王様格ではなく、アカトンボの類いを捕る方法を、である。人差し指を立てて、トンボの目の前でグルグル回すって。全然ダメである。トンボは絶対目を回さない。大体虫というものは、特に他の昆虫を捕らえて生きている昆虫は、目だってそれ向きに出来ている。だからピュッと速く動く物にはひどく敏感かもしれないが、ジリジリ動く物には木偶の坊同然である。トンボが幾匹か飛んでいる方に向かって石を投げてみるといい。トンボは落ちていく石を追ってスーッと下降する。ところがトンボの正面に立ち、ゆっくりと腕を上げ、片側の翅の上下に指をもっていき、いまにも掴もうとしても、トンボは目をクリクリ、正確には首をグルグルさせるだけである。ここでサッと掴む。失敗するとすればここで、トンボは翅に僅かでも触れるや否や、飛び去る。どっちが早いかは競争で、因って捕まえようとすれば、利き手を使う方がいい。さらに詳しく言えば、正面より真後ろからの方が確率はいい。また細い物の先に止まっているトンボでなければ捕まらない。道の上とか石の上のトンボの方が格段に用心深い。多分振動に因って危険を知るのだろう。近寄ることさえ出来ない。朝と昼なら、朝の方がトンボは鈍い。寒い朝など、飛べないトンボすらいる。しかしトンボも賢く、朝は大概電線に止まっている。
 捕ったトンボはすぐ逃がしてやる。一番いいのは暫く翅を畳んで持っていた後、服の上に止まらせ、静かに静かに手を離すことだ。トンボは又自分の阿呆をさらけ出し、掴まれていると思って飛び去らない。歩き出せばすぐ逃げる。矢張り振動に因るのだろう。
 朝のトンボは上空に多い。電線に一様な方向を向いて止まっている。風上に頭を向けている。上を見上げると、青空をバックにトンボの串刺しの如く、一本の電線に何十匹も止まっている。昼頃になると大分これらが下りてくる。風に乗ってスイスイと、風が無くとも大した苦労も無く、強い山の陽の下を飛んでいる。程よい掴まり場所があると―大抵ススキの枯れた茎とか枯れ枝の先だが―ポッと止まる。そして翅を少し前へ傾ける。また翅をカクッと傾ける、またもう一度。風が背後から吹いてくると、おっとっと、トンボは前のめりになって、また脚をきめ直す。
 空を見上げると目の痛いような夏の午後のトンボは、正にトンボ野郎だ。

 防火帯にもトンボはいる。防火帯とは、山火事が燃え広がるのを防ぐ為に林と林の間に木を植えずにおく草原の帯の様なものだ。夏の一日に防火帯を鼻戸屋という展望台まで歩くのが、我が家の毎年恒例の行事なのだ。なに展望台と言っても掘っ立て小屋とゴロゴロとした岩のベンチがあるだけの素朴なものである。展望は最高で、南アルプスの東西の広がりが真正面に見え、遠くに富士、右手彼方には諏訪湖と北アルプス連山が見えるという豪華なものだ。そこまで防火帯のうねうねとした細道を辿るのである。太陽は中天で、その暑さは東京とは全然違ったものだ。陽の光は厳しく、空気は乾燥している。
 ここには割合ミヤマアカネが多い。これはアキアカネより小型で色も薄く、翅の途中に太い黒い縦縞があり、幾分ノロマなので、つい手を出さないでおいてやる。飛び方もヒラヒラと頼りなげだ。動くものといったらトンボくらいのものだ。
 防火帯は暑さと陽の光と静けさに満たされている。耳を澄ますとジーンという聞こえない音が聞こえる。夏の空が出している音かもしれない。防火帯が直角に曲がるところに来ると、麓からの風が上がってくる。汗をかいた背中に頬に感じるその風を何と言ったらいいのだろうか。空も青みを増した様に思われる。思わず感嘆の言葉が家族の口をついて出る。しかしまた歩き出せば、防火帯の静けさに浸されて、黙々と脚を運ぶのである。

 ある日の午後、例によって出鱈目なトンボの観察に道を歩いていた。トンボはそこかしこに飛んでいる。アスファルトの上に止まっているものも多数いて、わたしの一歩ごとに飛び上がり、少し先に止まって、またぞろ飛び上がった。と、一匹飛び立たなかったトンボがいる。わたしはドンドンと足踏みをしてみたが、やはり動かない。死んでいるらしかった。
 しゃがんでもっとよく見ようと手を伸ばすと、そのトンボは頭がないのであった。第一節の部分がスッパリと無いのである。人間に頭部を毟り取られたのだろうか、あるいは、カマキリに捕らわれて、頭を与えて逃げたのだろうか。兎も角、道の真ん中では踏んづけられるかと思い、翅を掴んだ。するとトンボは脚を動かした。その動かし方は、トンボが捕まえられ止まっているススキから引っ張られるときに見せる動かし方と同じであった。
 半ば気味悪く、半ば呆れて、わたしはトンボを再び道の上に置いた。トンボは脚を動かし足場を決めて、最早アスファルトの上で動かなかった。トンボの胴の夏にしては珍しく赤、凝固しかかった血の赤だった(アカトンボでも夏の間は茶色で、夏の終わりから段々赤くなる)。
 風は一瞬止んだようだった。わたしは軽い眩暈を感じ、目を閉じた。目蓋の裏で、空の青を、輝く入道雲の白を、落葉松の碧を、そしてこのトンボの赤を感じた。トンボは確実に死ぬ。完全に生死の境にいる。そしてわたしにはヒョイヒョイ飛び回っているトンボより、灼熱に揺らぐアスファルトにしがみついている頭の無いトンボの方が、生きている様に思われた。
 彼は車に踏みつぶされるか、アリに連れ去られるかするだろう。しかし彼はその瞬間まで無い顔で微笑んでいないか。

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