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自分は何のために書くのか

1.理由(思いつつくままの順番で、重要性とは無関係)
1‐1.生活の糧

 現在の自分には当てはまらないが、職業に就いていた時には、書くことが間接的に生活の糧であった。30年間、ずっと植物を使った実験や試験をしていたので、計画し、記録し、分析し、報告し、検討するために、書かなければならなかった。実験・試験の質で給料を貰っていた訳だが、書いてなければ、何の価値もない。
1‐2. 記録
 メモや備忘のためも含めて、毎日何かしら記録として書いている。
1-3. 自己顕示
 現在、twitterやnoteを継続しているのは、自己顕示欲は大きな原動力だろう。
1-4. 人とのコミュニケーション・連絡
 
手紙やメールその他、人との関係性を保つためには、どんな形にせよ、書くことはとても大切だ。
1-5. 手続き
 生きている以上(多分死んでも)、手続きから逃れることはできない。死亡したら書くのは本人ではないが、生きている限り、自分で書くことが原則だ。
1-6. 祈り・想い
 
特にnoteでは思い出について書くことが多い。いなくなってしまった人に思いを馳せる。自分自身は宗教と殆ど無縁の人間だが、矢張り感謝と祈りの念はある。また、記憶が無くなっていく将来に間に合うように、書いている意味もある。
1-7. 思考の整理と深化
 
今、noteを書いているのは、この意味が一番大きいだろう。

 上記でも述べたが、見ることと「描く」こと、考えることと「書く」ことは、天と地ほどの差がある。書き始めると、自分の論理の未熟さ、考えの浅さが露わになる。自分の欠点を感じることは難しいし、それをどう直せばいいのかなんて、全く不明だ。未熟さ・浅さは、自覚したくはないけれど(醜さを鏡で直視したくないのと同じ心境だ)、でも書くことでほんの少しでも前進するかもしれない。しない可能性が高いとは思うが。

2.対象 
 先ずは、自分と自分の周りの人だ。周りと言っても、家族・親戚・友人・知り合い・twitterでやり取りをしたことがある方々と、どんどん距離感が広がるが。noteでは、全く未知の方もお読みくださる可能性も、僭越ながら前提としなければならない。

 さて、ここまで書いてみると、書く理由と、対象が嚙み合っていないことに気づく。
 書く理由が、端的に言って自分のためというエゴに溢れているのに、対象には自分以外の人が含まれている。自分のためだけなら、未公開の雑記にでもすればいいのだ。お前の自己顕示欲のために読まなければならないのかという、読む側の疑問に、わたしは全く答えられない。
 一方、社会的に誰かのためとか、多くの共感を目指すほど、我を忘れる愚かさはないつもりだ。もしかしたら、キーワードは「遊び」かもしれない。独り遊びは素晴らしい。ツイッターで道端の植物写真をあげることを続けているが、本当に楽しい。でも、noteでは、出来たら、いつか、一緒に遊べる「友だち」を欲しいのかもしれない。叶わぬ願望だろうが。そのために先ずは、noteで自己開示しているのかもしれない。
 兎も角今は、迷走鈍行を繰り返しながら、疑問を抱え、悩み続けつつ、楽しもう!

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