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掃除・物減らし・自己欺瞞との対峙


掃除

ここでいう掃除とは、普段の掃除ではなく、世間で言う「大掃除」に相当する。

猛暑のベランダ掃除や、寒風の中での網戸拭きはまっぴらごめんなので、年二回、気候のいい、5月と10月に、「中掃除」を行っている。退職したから出来る贅沢のひとつだ。
5月はGWの混雑を避けるためで、この期間に中掃除をするのは、有意義な暇つぶしだ。10月になって、夏の間、冷房中以外は開け放っていた窓のカーテンを洗い、網戸を両側から何度も拭き掃除すると、自分が呼吸している空気がいかに汚れているか、実感できるから、お勧めである。
物減らしと併用し、物を全部出して、そこを掃除し、取捨選択の上戻すことを繰り返す。

物減らし

世間では「断捨離」とか「終活」とも言うが、語句の権利関係がどうなっているのか知らないので、ここでは「物減らし」と呼んでおく。

物減らしを始めた理由は、両親の家の片づけに僅かに携わったからである。外国滞在中に、同じ年に相次いで両親が亡くなってしまい、遠くで手をこまねいているばかりの第一子である私をよそに、兄弟たちが看取りとその後の手続き、両親の家が荒廃しないような第一義の片づけを、遠方や多忙な勤めの中、やってくれた。
本帰国後、両親亡き後の家と同じ地方に住居がある私は、片道3時間軽自動車を走らせ、たびたび空き家を訪れた。両親が住んでいた自治体のごみ処理場に事前に許可を貰って、車で20往復ばかり、親の家と処理場を行き来した。両親の家は、整理はされていた。しかし、二人とも書籍を必要とする職業だったし、多感な頃に戦争を経験していたし、子供や孫の訪問をもてなす習慣があったし、何より病のせいでダウンサイジングをする間がなかった。私が運んだのは主に日用品と衣料品と書籍だけだった。最後には、大物があるので、結局業者を入れて、全てを処分したのだが、自分の手足を動かし、重さと手間をしみじみ味わったのは、本当に良かった。

手本が無いと何事も始められない私は、カレン・キングストン氏、やましたひでこ氏、近藤麻理恵氏、沢野ひとし氏の書籍と主張に先ず触れた。
いつものことだが、中途半端に理解し、自分なりに中途半端に実践している。試行錯誤を繰り返し、自分に合っていると思われる3方針を得た。

1.時間と場所を驚異的に小刻みにする。

物減らしは決断の連続だ。物を見て、いるのか、いらないのか、決めなければならない。何故かはなるべく考えない。迷いの元だ。
決断にはエネルギーが必要だ。精神力なのか、体力なのかはわからないが、すぐ疲労が来る。疲労は迷いを呼び、迷いは飽きと諦めを引き寄せる。そうすると、物減らし自体に嫌悪感を感じるようになる。自分がうまく進められないことに対する自然な感情だ。嫌悪感から、物減らしをストップすることは殆どお約束だ。
物減らしを続けるには、この嫌悪感を自分から遠ざけるのが、私には最良の方法であると、気が付いた。
だから、時間は1日当たり驚く程に短くする。半日なんてとんでもない。日によっては分単位で終わりにしてしまう。一つでも物が減ったら、どんな小さなものでもいいから、成果とする。捨てるものがなくても、物の存在と場所の確認でも、いいことにする。
場所も、気分によってだが、棚一つでもいいし、引き出し一つでもいいことにする。大事なのは、やり続けること、そして飽きないことだ。

2.数日間はテーマに集中する。

これは、数日間、例えば「衣料品」とテーマを決め、あちこちにあろうが一箇所にあろうが、衣料品の棚卸が終わるまでは、衣料品だけに集中する。傍にあるからと言って、同じ納戸の他の物には、その時は目もくれない。集中力は直ぐ枯渇するので、テーマ内で決断を連続するするほうが楽だ。
こうすると、自分の衣料品の全体像を掴み、どこに何があるかを頭にインプットできて、同じようなものでより古く、より似合わず、サイズさえ合わなくなったものを仮借なく捨てるのにとても役立つ。なおかつ、自分の持ち物を頭の中にリスト化(実際にリスト化するのもいい)することによって、将来の余計な購入を避けることに繋がる。

3.理想と比較せず、一瞬前の過去とのみ比べる。

前述のお手本の方々は、読者視聴者に視覚にも訴えるため、写真等を挙げられることがある。それ以外でも、雑誌等にも、片付いて、居心地の良さそうな室内の様子は、溢れるほど掲載されている。
人には矢張り、綺麗で居心地の良い空間で過ごしたいという、基本的願望があるのだろう。
そういう理想形と自分を比較するのは、自分の運動能力を大谷翔平選手のようなプロと比較して、嘆くようなものだ。自分を「プロ」と比較するなんて、どんな思い上がりなんだと、私は自分を𠮟るべきだと気づいた。
比較すべきは、自分の一瞬前の状態とだ。引き出しを開けて、整理し、決断し、取捨選択をする。前より良くなっているか、一つでも物が減っているかだけを、評価する。
「あるべき姿」を思い浮かべない。「一瞬前の状態」と「今の状態」とだけを比較する。これは、出来もしないくせに、職業人時代には「完璧主義者」とネガティブな意味も込めて評価されがちだった自分には、とても難しいことだ。しかし、自分には、物減らしの継続のこつである。

自己欺瞞との対峙

職業人の間は、単独で仕事をしながら家族を養っていたので、綺麗に居心地よく暮らすなんてことは、念頭になかった。「生き続ける」ことの方が、「綺麗に暮らす」より大事だからだ。勿論両立できる能力高い人がいるだろうが、一方で人にはそれぞれ能力の限界があり、その中で優先順位をつけるしかないのだ。
退職し、家族も独り立ちし、時間が出来た。両親の家の片づけにも関わり、将来のことも考えて、絶対ダウンサイジングをすると心に決めた。優先順位を入れ替えたのだ。
日本の自宅をキープしつつ、外国生活が長かったあと、本帰国したこともあり、どこに何があるか、二重に存在している物はないのか、退職による社会生活の劇的な変化で不要となった物は何か、疑問符だらけだった。

さて、始めて見ると、物減らしというのは、自己欺瞞との厳しい対峙ということに早々に気づいた。
特に最初の1周目にはまいった。
ある年齢に達すると、過去の思い出が大切に感じられる。自分のヒストリーが大事と思い込むのだ。そして関連物を保存する。
ところが、更に年齢を重ねると、自分の卑小さからヒストリーなんて意味が無い事に気づく。まあそれでも子供がいるので、大事な写真だけはスキャンしてデジタル化し、大量の写真をシュッレーダーにかけた。
明日死んだら、子供が見て、呆れるようなものはないかという視点で見返し、どれだけの物を処分したことか。よくもこのような物を残しておいたものだ。
書籍もそうだ。勿論職業柄必要だった本は不要になったのだから、処分の対象だ。しかし、自分の”教養”を買いかぶって書棚に並べていた本が多数あった。恥じながら処分である。本なんて、好きな本だけ残せばいいのだ。

大問題連発が衣料だった。
職業人としては、大部分の時間を作業着で過ごしたが、それでも人前で通訳したり、案内したり、発表したりする場面が頻繁にあった。それ用の洋服は要らない。これは論理的である。
しかし、若くてすっきりとしていた時の、お気に入りの洋服や、職業人として大変なプレッシャーを受けていた時に、自覚せず、憂さ晴らしと見栄のために購入し、袖も通していない、タグ付きの衣料品を大量に処分するのは、辛かった。
現状、つまり自分の年齢と体形を客観的に直視するのは、私には非常に難しかったのだ。また、プレッシャー下ではあったかもしれないが、当時の愚かな浪費に散じたお金が今あればと、後悔せずにはいられなかった。

自分の周りにあるものは、自己表現なのだ。そして物減らしは、自分の愚かさとの取っ組み合いなのである。

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