Chat-GPTで書いてる記事は、ちゃんと明記したほうがいいと思う
40手前で、何の縁もゆかりもない三重県は菰野町というところに移住したmitaniです。
noteかき始めたのをきっかけに、いろんな方の記事を目にすることが多くなってきたのですが、ちょこちょこ「どう考えてもChat-GPTに書かせてないか?」と思う記事を見かけることがあります。
AIに関してのスタンス
現在の会社も、いわゆる「IT業界」であり、事業企画/推進的なことにも携わってきたなかで、やはり「AI」の活用に関しては議論が避けて通れない。
生成系AIが出てくる少し前、音声系AIとか流行ってた頃とかもありましたけど、個人的にはずっとその時から「AI」を「銀の弾丸」のように捉えている風潮についてはずっと否定的でした。
流行り物が嫌いではないのですが、ハイテク系バズワードはどうしても「技術」や「概念」の凄さが先行している印象があり、ツールとして使いこなす側のリテラシーに依存する点が結構蔑ろにされているような気がしていることにずっと違和感がありました。
同じようなものでいえば、SaaSのトレンドなんかも実はそういうところもあり、HR系だと猫も杓子も「タレントマネジメント」っていう風潮がありましたが、自分で人事とかもやり始めて分かったのは、「頭で理解はできても、実際に使いこなして本来の価値を得れるかは全く別」ということ。
効率化は、一定分かりやすいツールの価値であり、日本人が大好きな「無駄を減らす」という点で非常に取り組みやすいものではありますが、それ以上の価値は結局使い手の力量に依存するし、本来のSaaSの考え方であれば、そこも含めて提案していかないといけないわけなのですが、そこがどうしても地に足ついた形で価値提供に持っていくのは難しい。
話が若干ズレましたが、僕としては「AI」は、「それ自体が何かを全て解決してくれるもの」ではなく、「使い手の意思に応じて、アウトプットをアシストしてくれるもの」という位置付けで捉えています。
ですので、数年前にAdobeがSenseiを発表した時などは、いわゆる人のクリエイティビティの具現化をサポートするものとして、これこそが正しい使い方だよなと膝を打った記憶があります。
手放しで生成系AIを称賛できない
生成系AIも本質的には同じで、「意思決定やクリエイションなどをサポートするもの」としての使い方は大賛成。
Chat-GPTなんかもプロンプトの工夫によって、アウトプットされる情報の精度は全然異なるし、面白い使い方としては、自分の悩みを相談するなど「壁打ち相手」的な使い方があるって聞いたのはかなり目から鱗で、しかも壁打ちに対するスタンスを指定することで、あえてネガティブなスタンスで懸念点を伝えてくれるなど、「一般論に基づいた客観的示唆」を手軽に得られるという意味ではものすごく便利。
画像生成なんかも、ある意味アイデアやセンスなどをディレクションするスキルさえあれば、非常に高速でクリエイティブを作ることができるという意味では本当に革命的。
ただ、やはりどこまで言ってもAIは「アシスト」するものであり、判断やアウトプット自体を全て委ねてしまうのは違うと思っている。
創造的行為、何もクリエイティブに限定せず、意思決定やアウトプットによって価値を生み出す行為は、その人なりの着眼点やアイデアなどによる独自性が前提で、その精度を高めるための技術がAIということであれば素晴らしい技術だと思うものの、一番重要な「独自性を捻り出すための思考」が停止するような使い方が横行すると非常に残念。
具体的に、ブログ記事なんかで言えば、コンテンツマーケティングにおけるSEO系の記事とかは、まさしく「これChat-GPTに書かせてるだろ」ってな具合に金太郎飴みたいな記事が量産されているように見えるし、それ自体の検索順位を決めているのも、アルゴリズムに基づくAIだったりもするので、下手するとこの手のマーケティングはもはやAIの世界で代理戦争みたいなものに、消費者や企業が巻き込まれているような状態にも見えてくる。
デジタルマーケティング自体も、今の世の中で絶対に無視できないものではありますが、数字とアルゴリズムに支配されすぎることで本質的におかしな方向になってしまわないかと思っている。
昔、トリビアの泉で「言語学者が本気で考えた一番面白いギャグ」が、到底常人には理解できないような意味のわからなさで滑稽だったのだが、下手すると数字とアルゴリズムに支配されると「人間の感性」を度外視した価値観を「数字的な正義」としてみなされるのではないかというのは、ポストトゥルースという言葉が出て来た頃に本気で心配したが、AIが進化しすぎていよいよそういうことが本当に現実になるんじゃないかと思うこともよくある。
それ以上に、専門家を名乗る人が、自分の視点が全く入っていないような「ごく一般的で、教科書のような」内容のコラム記事を、妙なくらい「整然」と体系的に整理された形で文章化しているのを見ると、「これどう考えてもChat-GPTにかかせているだろ」って見えるときがよくあり、それが本当に残念というか、一体これなんのためにやってるんだろう、って思ってしまう。
忙しい人のために、書籍にあるような内容を読みやすく要約してみましたってことであれば、意図としてわかるのだが、それはその人にとって「やるべき」ことなのか、はたまた、その人はそれで誰かのために役に立っているつもりでいるのか、など考えると、ものすごく残念な気持ちになってしまう。
noteなどのブログで記事を書くことも、人それぞれ目的があって、手段として使っているわけではあるんだけど、「文字にして発信」すること自体は非常に創造的な行為であって欲しい。
Chat-GPT使って時短すること自体は構わないんですが、明らかに丸投げしてるだろって記事を、さも自分が書きましたみたいな感じで公開しているのは、見る人が見ればよくわかるし、そこになんら個人としての付加価値が載せれてない状態で専門家ぶるような人は、恐らくなんですが、この先淘汰されていくんじゃないかなとは思うし、淘汰されていってほしい。
「嘘を嘘を見抜ける人じゃないと、インターネットは難しい」という20年以上前の稀代の名言は、生成系AIでハルシネーションって言葉が生まれるくらいに、加速度的に真理としての重みが増しているとつくづく思う。