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本要約チャンネルの功罪?

書物を読むとき、可能な限り一言一句、隅から隅まで読むようにしている。

どんなに苦痛でも、短くなった鉛筆を最後まで使い切るかのような「意地」でもって、そうしている。良い本となると再読もするし。労力も負担も甚大である。

そうしない場合もある。本屋で平積みされている本。新書の類いである。斜め読みでもササッと読めてしまうので立ち読みで済ましている、かな。余程の事がない限り。全体を眺めて粗筋を確認して段落ごとの冒頭と結論だけ読んで満足している。

本要約チャンネルについては、悪口で片づけるのは簡単である。

書物を要約することが実質不可能なのは、ウィキペディアの小説や哲学書の概略を見ても一目瞭然だ。肝心かなめの、文章の”行間”が完全に消失しているので、私のようなものは満足できない。作者の人格の力は、センテンスではなく、行間から滲み出るものだからだ。

だけれども、本要約チャンネルのその凄まじい影響力や経済効果まで加味すると、迂闊なことはいえない。
すくなくとも従来の読書の流儀では説明つかない、新しい形相であることは、確かである。

單に要約チャンネルを「見て」済ませるに留まらず、動画に感化されて、みずから要約チャンネルを「つくる」層が出てくる場合を考慮せずに、只々非難するのは、片手落ちというものではないか?とも思う。

一過性のムーブメントを超えた、れっきとした「文化」に成長するひとつの可能性として。私は古い人間という自覚があるので「本要約チャンネルは駄目」とは、あえて言わない。

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