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お念仏法話①籠の中のカブトムシ

先日小学3年生の息子が友達からカブトムシを2匹貰ってきて飼い始めた。
とても元気な雄と雌のカブトムシだ。

そして物凄く力が強い。
先日夜に、いきなり「ガタッ」という音が聞こえて、ガサガサと音がするので見てみると、なんと自分で籠の蓋をこじ開けて外に出てしまうくらい力が強い。しかも二夜連続だ!

シートを虫かごと蓋の間に挟んでいるので、接続が甘くなっていたのだ。

すぐさま、素手で掴んで虫籠に戻そうとすると、カブトムシの足が手に食い込んでその痛さたるや!!泣くほど痛い。
痛さで放り投げないように必死で堪えて、籠にもどした。手のひらには血がにじんでいた。

そんな私にとっては手の焼けるカブトムシだが、しかし毎日餌のゼリーをやっていると可愛く感じてくる。

ある時、連れ合いが「でも少し可哀想だね」と言った。
カブトムシは生まれた時から籠の中で暮らして、森の中を飛び回ることもせず、そのまま籠の中で死んでいくのはなんだか悲しい気がすると。
だから、もう少し子どもたちと観察したら、森に逃がしてやろうかと今は考えている。

カブトムシを飼ってみて、ふと思ったことがある。
それは、この私もまた籠の中で生きているということだ。
私は生まれた時から「私」という籠の中にいて、41年間、そこから一歩も外に出ることができないでいる。
どんなに知識や経験を身につけても私は私から決して離れることができない。
どんなに体力や筋肉や脚力を付けても、科学の恩恵を受けたとしても、私は私からは決して逃げることはできない。
それを仏教では「我執」という。

生きるということは苦しみだ。それは「我執」の籠があるから。

近くにいる家族、友人、職場の仲間であっても、その人のことは全く分からない。私という籠の中からしか見ることができないから、「こうであるはず」という想像の域を出ることがないからだ。
どこまでも自分中心という籠の中で、ものごとを判断して、良い人悪い人、良い出来事、悪い出来事と自ら見てしまう。それによって、自らの思いが事実に反して苦しみが生まれてしまう。
自分の身体でさえ、ご縁によって今生かされているものなのに、生老病死そのままに受け止められず、調子のいい時は思い上がり、調子が悪くなると卑下したり「もうだめだ」と投げ出そうとしてしまう。

カブトムシは自分の力で籠の中から二夜連続で脱出したが、私は自分の力では決して出られないのだ。しかしカブトムシだって虫籠からは出られたが、カブトムシ自身からは出られないのだ。私と何も変わりはしないのだ。

実は仏様とは、この我執の籠を出られたお方のことだ。

そして阿弥陀如来という仏様は、自ら我執の籠がないゆえに、私の籠の中にまで、しっかりと入り来てくださっている。それが南無阿弥陀仏だ。

籠の中からは、大切な人の籠の中さえ知ることができないように私も私の籠の中の悲しみの全ては他の誰にも分かってもらえない。
しかし、阿弥陀という仏様は、籠から離れているからこそ、自他の分別がない。だから唯一私の苦しみ悲しみを内側から漏れなく見抜いてくださっている。

そして、阿弥陀仏は私たちのお称えする「南無阿弥陀仏」というお念仏の姿となって、私の檻の中にまでご一緒くださっているのだ。

言い方を変えると、阿弥陀様は、籠の私を、その籠のまま、しっかりと抱いてくださり、安全な森、「浄土」まで連れていき、私はその時初めて、我執という籠から解き放たれ、私から自由になるのだ。
おさとりの仏とならせていただく。

仏となった私は、そのまま今度は我執という籠に苦しむ縁ある生命の所に向かっていって、阿弥陀如来とともにその籠の内側までにも到り届き、はたらく身の上になる。

これからお盆の時期をお迎えする。
私がお仏壇に手を合わせるということは、お念仏慶ばれ、先に仏となられた方々が阿弥陀様とともに私を導いてくださって、今知らせてくださっているのだ。
お前の籠の中にまで私はしっかりと一緒だということを。
そして、カブトムシの所にも。

最後までお読みくださって有難うございました!南無阿弥陀仏

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カブトムシ。一日にゼリーを一個ずつ食べる。

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ムラサキツユクサ Y氏が描いてくれました。

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