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お念仏と読書⑱今、ここを抱くナモアミダブツ/『愛をひっかけるための釘』中島らも

中島らもさんのエッセイ集『愛をひっかけるための釘』の中にある「サヨナラにサヨナラ」を通して、アミダ様は私達の今とここをご一緒くださる仏、南無阿弥陀仏ということについて書かせていただきます。

私たちが夜、空を見上げる時に見ているのは「空いっぱいの悠久の過去」なのだそうです。

そこに今見えているのは、宇宙の開闢以来の過去を、同時に空いっぱいの光として見ているのです。

たとえば、これから夏になって夜空に見える天の川という星たちは、実は、私たちの住む地球を含む銀河の姿なのです。太陽系は「天の川」銀河の端っこにあるそうです。円盤形のこの銀河の大きさは、ある説では4万光年と言われています。これは光の速さで銀河系の一番遠い星の光が地球に届くまで、なんと4万年もかかるという距離です。4万年前の星の姿を今望遠鏡などで見ているのです。

4万年どころではなく、アンドロメダ星雲は230万光年離れています。これはアンドロメダ星雲の星の光は230万年かけて地球に届いているということで、寿命の短い星もありますから、今はもう消滅している星も途轍もなくたくさんあるのです。
高度な望遠鏡をのぞけばもっともっと過去の光を見ることができるのです。
夜空は、時の悠久の流れを一望のもとに照らし出すスクリーンで、その中には、この宇宙開闢の姿さえ見出すことができるのです。
 

ところで、私たちが太陽を見るということ。それは厳密にいえば今から8分前の太陽の姿なんですね。それだけ太陽との距離があるということです。

ところでこうしたことを考えているうちに僕は奇妙なことに考えついてギョッとしたことがある。我々はこうして夜空に「過去」をみているわけだが、それなら厳密に言えば、我々が目にするもの森羅万象、何ひとつとして「現在」のものはない。我々が見ているのはこれすべて「過去」なのである。

たとえば、1キロメートル先の丘の上で大切な人が、こっちに向かって手をふっているとすると、その姿は光速の「299000キロメートル分の一秒前」の姿なのです。
もっというと、誰かと向かい合って座っているとします。しかし少し距離がありますから、それは言わばほんの、微かに前のその人が見えているわけです。全くと言っても差はないのですが過去のその人なのです。

完全に同じ時間を過ごすためにはどうすれば良いのでしょうか?
実はただ一つだけあるのです。

だから肝心なのは、想う相手をいつでも腕の中に抱きしめていることだ。ぴたりと寄りそって、完全に同じ瞬間を一緒に生きていくことだ。
二本の腕はそのためにあるのであって、決して遠くからサヨナラの手をふるためにあるのではない。

らもさんほどロマンチストはいないと、私は20代の頃このエッセイを読んで思いました。

らもさんが、このエッセイで一番言われたかったのは「今」は「ここ」にしかないということです。そして大事な人と今とここを共有したい、二度とお別れしたくないという願いです。
それは「サヨナラにサヨナラ」というタイトルに端的に表れています。

しかし悲しきかな、それは無理だと思います。常に同じ時間一緒にいるのは不可能です。なぜなら、自分と相手はどこまで近づいても完全に一体にはなれないですし、私という存在がある限り、空間を私の分、切り取って占領しているからです。

また、心においても、切ないことに完全に一緒ということはありません。誰よりも「自分のこと」を第一に考えているため一つにはなりえないです。
それを「煩悩具足の凡夫」といいます。仏様のお法りを聞く中に知らされていき、私達の愛と憎しみは一体で、近い間柄の人ほど、距離を感じたりする時があるのでしょう。

アミダ仏はそのような私の「今」と「ここ」をともにしようと立ち上がってくださいました。

「アンドロメダ星雲は230万光年離れています。これはアンドロメダ星雲の星の光は230万年かけて地球に届いている」と先ほど書きました。
しかしそれどころの話ではなく、アミダ仏はここから十万憶の仏土を超えてある世界、極楽浄土にいらっしゃる仏さまと『仏説阿弥陀経』に説かれているです。

その時、仏、長老舎利弗に告げたまはく、「これより西方に、十万憶の仏土を過ぎて世界あり、名付づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。」
『仏説阿弥陀経』


十万憶の仏土とは数を超えていることを示しています。同時に煩悩の私はさとりの境涯からの無限に離れていることをあらわしているのです。

しかし、そのような私達の「今」と「ここ」に、間髪おかずおいでくださったのがアミダ仏です。

なぜなら、自他一如のアミダ仏は、私が他人事ではないので大問題なのです。私がすくわれねば、アミダ仏がすくわれないのです。
そしてこの私をすくうには、今、ここのあなたをいだくより他にはないと見てくださいました。

それはどのようなお姿かというと、私達のお称えする南無阿弥陀仏のお念仏です。声の仏さまです。口に称えられる仏様となってくださったのです。

「南無阿弥陀仏」とお念仏申すとき、どうであってもすくわれることのない、孤独で一人ぼっちで、今までも、またこれからも生きていくこの私達と、アミダ仏は距離を持ちません。

だから「サヨナラにサヨナラ」とは、南無阿弥陀仏です。

最後までお読みくださってありがとうございました。南無阿弥陀仏。


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