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お念仏と読書⑲視点場妄想譚/『置き手紙』安野龍城

この本は義父である福井県越前市専應寺の安野龍城師が、住職退任を機にご門徒さんに向けて書かれたものです。寺報や福井新聞に連載されたものがまとめられています。

皆さんは、「視点場」という言葉をご存知ですか?
私は知らなかったのですが、この本を読んでなるほどと思い、今回、仏様の「視点場」について味わってみました。
本文を引用し、紹介させていただきます。

視点場妄想譚

 京都の寺々の庭の録画を見ていた。すると「視点場」という言葉が多様されているのに気づいた。西芳寺(苔寺)庭園随一の視点場はここです」とか、「東福寺の庭の視点場はここです」といった具合である。

 聞き慣れない言葉だったので、少し調べてみると、「ビューポイント」、すなわちある景観を眺める時の立ち位置のことらしい。その位置に立つと、庭にある樹木、池、石、灯籠等々までの方向、距離、角度等が、最高の美しさで輝くのだという。しかもそれは季節や時間、天候、借景までもが、造園師の計算の中にあるという。

 ということは、その「視点場」に立てば、造園師と同じ時代まで遡り、同じ目線になれるということではないか。つまり苔寺の「視点場」に立てば、ボクはこの庭を造った夢想国師の時代にタイムスリップし、しかも国師と同じ目線になれるということだ。青蓮院の庭の「視点場」に立てば、室町期の相阿弥や江戸期の小堀遠州の目そのものになれるということだ。

 そんな途方も無いことを考えている時、二つの出来事が重なった。一つは国宝や重要文化財の掛け軸修復を生業としている友人が、テレビに出演したのだ。その番組の中で、彼はこんなことを語っていた。「僕等は今修復している掛け軸を、百年先、二百年先の修復師が見たときの視点場で修復しています」と。
 もう一つは、京都の仏具職人がある月刊誌の中で、「きちんとした仏具は手間もコストもかかる。でもそれは、百年後、二百年後に評価して頂けるという視点場に立って仕事をしています」と語っていたのだ。

 うーん、そうか!視点場というものは、過去へも未来へも自在に動くものなのだ。このあたりから、ボクは得意とする妄想の世界に突入する。

 ボクはもうすぐ七十二回目の誕生日を迎える。過ぎ去った七十年は勿論、短くなった余生も朧気ながら見え始めた。今ボクは、ボク自身の人生の全てを見渡せる「視点場」に立っているのではないか。「これで良かったのか」「これからどうするのか」を問う、大切な視点場に。

 さらに妄想は妄想を生む。
 過去への「視点場」移動も興味はあるが、未来への移動は実に愉快である。百年先、二百年先のボク。地獄必定のはずが、はからずも阿弥陀如来の「摂取不捨」という願力によって「仏」となっている?
 そして還相回向の仏として、甲斐甲斐しく衆生済度に立ち回っている?
「視点場」を未来に移しての妄想は、不謹慎だが限りなく愉しい。

視点場とはアミダ様の前

「視点場妄想譚」を読んで、最初、私はアミダ様のお顔がよく拝見でき、お浄土のお荘厳が一番よく拝見できるお仏壇の前こそが「視点場」なのではないかと思いました。

お寺の本堂やお内仏のお仏壇に手を合わせ、南無阿弥陀仏とお念仏申しお礼する時、先に浄土に参った祖父のこと、祖母のことを思い出しました。

祖父母もまた生前、同じアミダ様の前にこうして毎日手を合わせていました。
祖父母の生きた時代、それは厳しい時代だったと思います。
嬉しいこと楽しいこともあったでしょう。
しかし思うようにいかないことが多々あったと思います。

家族で喧嘩をしたり、病気の苦しみや人間関係、誰にいうこともできない悲しみや孤独を抱えて、視点場に座っていたのでしょう。
もしかしたら、私のことで泣いたり笑ったり怒ったり、願ったりしながら、座った日もあったかも。

また、御門徒さんのお仏壇の前に座らせていただく時に、このお家の先代、先々代もここに座られていたのだと思いを馳せるようになりました。

一つ言えるのは、お仏壇の前に座る時、先立った祖父母も、御門徒さんも共通して「どうか、あなたも私と同じアミダ様を拠り所として、お念仏申してお浄土に生まれておいで。また必ず会いましょう」と私に願ってくださっているということです。

視点場とは、相手の視点に立つことを教えてくれているのかなと思いました。

アミダ仏の視点場

アミダ様は、仏様になる前、法蔵菩薩という修行者でした。
法蔵菩薩様がすべてのいのちをすくうために、この上なく尊い願いをおこされたのだとお経には説かれます。
アミダ様の視点場はどこかというと、法蔵菩薩様のご覧になった立ち位置です。

それは私の人生の過去・現在・未来を貫いて見通せる場です。
私の裏面も表面も同時に見る場です。
同時に私の身体の、また胸中の隅々までをも見渡される場でもあります。
それは私が思い図ることも出来ない、時空を超えた特異点とも言えましょう。

法蔵菩薩様は、私の苦悩のいのちのありようをご覧になって、この者にはさとりに到る力を一切持たないと見抜かれました。私の方から南無阿弥陀仏と出向いて行って、あなたの口に称えられてすくうと願われました。
その願いは法蔵菩薩様がご苦労にご苦労されて成就され、今ここの私にはたらいているのです。それが南無阿弥陀仏のお念仏です。

お仏壇の前で、そしてまた、日常のいかなる場所でも、南無阿弥陀仏とお念仏をお称えする時、視点場に立たれ「あなたを決してすてない」と願いおこされた法蔵菩薩の御苦労を聞かせていただくのです。

最後までお読みくださって有難うございます。南無阿弥陀仏。




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