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時代錯誤で、わがままな人!

「両親の悪口は書かない」と書いたけど、あえて書きますね。

母とは違い父は子離れできなかったのだろう、と思います。

それでも小学生の頃はスクーターの後ろにボクを乗せて近くの川へと釣りに連れていってくれたりもしたのですけど…。


問題行動が出たのが中学生の時で、夏休みの技術の宿題で木製の本立てを作ってくるように言われたのに、それを勝手に作ってしまったあたりからです。

ボクも「それなら、それを提出すればいいや」という軽い気持ちでいたけど、それを見た同級生たちから、白い目で見られはじめたのです。


母に相談したら「『もう一つ用意してください。』と言えばよかった」と言うけど、父がそれを知ったら、またそこで一悶着あったと思います。


何しろ父がワンマンな家庭でしたからね。


我が家の隣家が機械を使って仕事をしていた場所で、社員(2名)と、父は中がよかったから「息子のためにやってやるか!」と、その後の展開も読めずに本立てを作っていまったのです。


クラスメートから、白い目で見られるようになるとは考えもしなかったと思うけど、余計な愛情を使ったから、その後高校へ入学するまでの間、ボクの話し相手はいなくなりましたよ。

その事は父には話しませんでした。

時は過ぎ、前に書いたことと同じことを書きますが、父と口論になった時に、父は「警官を呼んでこい」と言いました。


そして警官が来てからは一言も発せず、うなだれたように下を向いている父に大きな声で文句を言っていたから、父が耳が遠いことを知らなかった二人組の警官がボクに大声で文句を言ってきました。

そして警官が帰った後で、校区の中学生4人組が自転車のサドルを叩いていたから、窓を開けて「何でそんなことをしているんだ?」と言うと「何か文句があるのですか?」と言うので口論になり、ある程度時間が経った後に「もう帰ろうぜ。」と1人が言い出し、帰っていったけど、その次の日から、塾帰りにボクの名字を大声で叫んで帰る行為を二人組により一年半にわたって続けられたのです。


その時も「俺が文句を言ってやる!」が、父の意見でしたからね。

どうしようもない人でしょう!!


最後は片脚が不自由になっていたから「俺が帰るまでは引っ越しの準備はするなよ!」と、言って出ていったのに、勝手にやってしまい熱中症になり、倒れた拍子に脛椎を強打して、自らの意思で首から下を動かせなくなり、即入院でしたよ。


ある意味、自分の道を行く人だったのかもしれないけど、周りに迷惑をかけていたことに気づかなかったのは許せませんでした。


若い頃は浪花商業高校の野球部のエースだったとか、自慢していたけど「おまえは働かなくてもいい。俺が食わしてやるし、遊ぶ金もくれてやる。」とか言って、母がまだらボケになった時から、すべてをボクに任せっきりだったじゃないの?

母が亡くなった時も、喪主となるべき人が葬式にも参列しなかったしね。


死者の悪口は書かない方がよいかもしれないけど、ボクが手にできるハズの障害年金を、自由に使ったこともなかったのではないですか?


あなたが先に亡くなれば、母は軍人恩給も手にできたから「万々歳だったのでは」とも思えます。


ちなみに書きますと、名字を叫ぶのは引っ越しした先でもありましたが、ボクは本性をあらわして、聞こえた後にすぐに追いかけたら、2度と叫ぶことはなくなりましたよ。


家庭の恥は晒したくないから、仮面を被っていたことなど、昔住んでいた場所では誰にも気づかれなかったのですからね。


さて、そろそろ終わりにします。


繰り返しになる部分が多かったけど、ここまで読んでくれてありがとうございました。


終わり。



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ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。