見出し画像

母校!

写真はJr. Athlete PLUSという高校の部活動を応援するスポーツマガジンから転写したものです。

全国的にこのような雑誌があるのかは分からないけれど、高校生で部活を頑張っている人たちは、これがあることで部活を頑張ろうという気持ちに拍車がかかると思います。


今は元気がないけど、ボクらが高校生だった頃は「県立浜松商業高校といえば、野球部!」といわれるほど野球部は強かったのです。

県立浜松商業高校の野球部は、ボクが入学する3年前に選抜高校野球大会で優勝したという経歴を持ちます。

3年前に野球部が全国制覇したからか知らないけれど、高校に入学した当初から朝一番から応援歌練習というものをやらされることが、通例になっていました。

高校の校歌すら知らなかったボクたちでしたか、1年生の各クラスには3年生の応援団員が来て指導しました。

スピーカーから流れる応援歌や校歌を、生徒手帳を見ながらたどたどしく唄うボクたちに応援団員の方々は厳しく指導されました。

校歌はただ直立して唄うだけでよかったのですが、応援歌の時は拍手を入れたりしなければならず、それが上手くやれないと、そのたびに指導が入りました。

「生意気な態度を取る生徒には、応援団員から鉄拳制裁が入ることもあった」と、噂には聞きました。

遅刻した者は、廊下で応援歌練習をやるはめに…。

ボクの記憶では、それは1ヶ月間続いたと思います。

 
が、それは徒労には終わりませんでした。

野球部が県大会で優勝し、その年の夏の全国高等学校野球選手権大会に出場することになったのです。

高校生時代に甲子園で母校の野球部を応援できる高校生は、確率的にどのくらいになるのかはわからないけど、とてつもないしあわせなことだと心底思います。


そんなしあわせを不意に終わらせる危険が迫ります。


ボクが所属していた物理部の合宿の日と、甲子園での野球部の第1試合の日が重なってしまったのです。

合宿の日を先延ばしにすればよいと思ったけど、船までチャーターしてあったから、もう合宿の日を変更するわけにもいかなかったし、合宿に出ないわけにもいかなかったのです。

ただ、合宿といっても、愛知県の離島へ行って星を眺めるだけのことでした。

「そんなことだけのために、一生の思い出になることを潰されてたまるかよ」と、心から思いましたが、そこは子供ではないのだからと、涙を飲んで我慢することにしました。


「野球部が初めての試合で、負けませんように」


…願いは叶いました。

念願叶って、ボクたちは甲子園で野球部を応援することができたのでした。

母校の野球部は、ベスト4をかけた試合で滋賀県の瀬田工業高校に負けて甲子園を後にしましたが、その時の相手の投手は、その後日本ハムファイターズてエースとして活躍することになる『西崎幸広』さんであり、当時すでに140キロのストレートを投げていたということでした。

現在でも、あの当時を知る人たちがいると、当時の話で盛り上がれるから、そういった意味でも宝物をもらったと思います。

ちなみに瀬田工業高校戦で登板した県立浜松商業高校のエースである浜崎修さんは県大会の連投から肩を故障していて、その試合では先発しなかったのです。

当時の監督だった磯部修三監督は「もし、浜崎の肩がこわれてなかったら全国制覇も可能だったかもしれない」と振り替えっているそうなのです。

「母校の野球部が、また甲子園に出場して欲しい」と願う同窓生もおられますが、監督として優秀だった磯部修三さんや森下知幸さん(常葉大菊川高校を優勝に導いた浜松商業高校が優勝した時の遊撃手)のような名将は現れないし、他の高校も野球部強化に力を入れるようになったから無理ではないかとボクは考えます。

最近聞いた話では、現在の応援団の団長は女性が勤めているらしいですよ。


おしまい



ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。