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母の悲しみ

母が「一生蕎麦屋の娘で終わりたくない」と考えて
茶道を学んだことは、以前書いた。

が、茶道をやるのには、お金が必要だった。
そのお金を母に援助していたのは、母の両親だった。

浜松の南部で、2番目の売り上げがあったと母は言っていたが
茶道をやる為に、親にお金を出してもらっていた。

幸い、若くして教える資格を取って、23歳で1番弟子を得たが
茶道具は高く、しばらくはそれも親に買ってもらっていたのだろう。

南部で2番の売り上げがあったけど、ボクは1番の店の味を知っていたから
「2番でも、この程度の味かよ」と思っていた。
場所が、浜松駅からすぐ近く、
それで何とか2番目の売り上げだったわけで、味は3流だったようだ。

でも、母は親に感謝してたようで、苦しいときに
「早く、おばあちゃんのところへ行きたい」と嘆いたこともあった。
親の愛を感じ取っていた、じゅうぶんに・・・


美人だったけど、茶道ばかりしていて婚期を逃し
お見合いで父と結婚したが、古い考えを持ってる上に
嫁をこき使う、姑・小姑に厳しくされ
食事も満足に与えられず、どんどん痩せていった。

子供を身ごもっても、流産・破水で授からず
3度目に身ごもったボクが、障害を持って生まれて
本当に悲しかっただろう。

でも、ボクには優しかった。
いろんなことを教えてくれた。
人にものを教えることが職業だったから
ボクにわかりやすく、教えてくれた。

正座をしても、足が痺れにくくなる座り方も教えてくれた。


その母に、学校で「いじられた」からと
「何で、ボクの右手はこうなっているの?」とたずねたら
母は泣き出してしまった。
女性の繊細な感情には、その質問は「タブーだった」のかもしれない。


おかげでボクは母にも苦しみを打ち明けられぬようになり
人に本心が言えぬようになった。
思春期などなければ、そんなことにはならなかったのだが・・・


ボクは本心をいえない、母はボクに立ち直ってもらいたい
互いに、言いたいことも言えず、時は流れていった。
父親は論外だった。


母が認知症になる少し前に、ボクに手紙をくれた。
「私は、お茶ばかりをやっていて、少しもあなたのことを
考えていなかった」と。

「そうじゃないんだ」と言えず、素直になれなくなっていたボクも
そこでまた、苦しみを味わった。


母が「姑・姑がろくにメシをくわせないから
あんたの指がそんな風に生まれた」とよく言っていたが
ボクには返事を返すこともできなかった。


そんな風に、母が考えても仕方なかった。
「苦しみに耐えられる子に、神様は苦難を与える」
と言った人もいたが、母親にまでとはその人も考えなかっただろう。


障害が、その人の人生を狂わせるということは理解してもらいたい。


「障害は個性だ」などと知ったようなことを言うのは、やめてもらいたい。

好き好んで、障害を持って生まれる人はいないのだから・・・

ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。