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スポーツ思考から「IOCは覚悟を決めて政治的にならなければならない 〜政治的中立のジレンマ〜 」

プーチンがパラリンピックの代替大会をロシアで開催し、ロシアはも
ちろんベラルーシ、カザフスタン、タジキスタン、アルメニアが参加
した。クロスカントリー、バイアスロン、カーリング、スノーボード、
アルペンスキー、アイスホッケーが実施された。メダリストには賞金
が出された。

注目すべきは開会式でのプーチンの演説で、彼のスポーツへの愛憎が
錯綜していて面白い。

我流に要約すれば(これを羊訳という)「国際パラリンピック委員会
(IPC)がロシアとベラルーシの参加を認めない判断を下したこと
はスポーツの守るべき価値を貶めた。オリンピックはクーベルタンの
精神を踏みにじり、腐敗した大会になり続けている。

平等というが、それはねじ曲がった寛容となり、正義というがそれは
ダブルスタンダードになっている。そして、スポーツの純粋な闘いは
政治的なアンチドーピングの官僚主義に陥っている

ロシアとベラルーシの選手たちを北京パラリンピックから排除するこ
とは、皮肉の極みだ。無実な彼らを貶め、苦難を乗り越えてきた姿を
世界の人々に見せて希望輝く未来を信じさせる機会を奪ったのだ」

確かに言われてみれば、オリンピックもパラリンピックも商業化し、
西欧化し、オリンピズムの本来のあり方が問われている。ドーピング
暴きもどこかでアングロサクソンイズムが見え隠れする。確かにウク
ライナ侵攻の罪は選手にはない。

バッハがオリンピック憲章に「政治的中立」を持ち出したのは、プー
チンや習近平とうまくやるためだったが、見事に裏切られた。

ロシアのスポーツ大臣オレグ・マチシンは「この大会のテーマは『我
々は共にある!スポーツで』である。世界が政治的になれば、スポー
ツもそうなる。我々はスポーツの本当の価値を守るのだ」と言う。

まさにバッハがオリンピックモットーに付け加えた「共に」をパラリ
ンピック代替大会のモットーにしてしまっていた。

バッハは先にロシアとベラルーシへのスポーツにおける制裁について、
長文のメッセージを発表しており、「政治的中立を保つべきという五
輪憲章に反している、スポーツの政治化だという批判があるが、その
ような安易な議論の罠にははまらぬ」と明言している。

しかし、それはバッハ自ら招いたジレンマでもある。オリンピズムは
政治的中立を主張すればするほど政治的にならざるを得ないのだ。

プーチンのIOC批判は的を射ている。しかし、彼には決定的な誤謬
がある。それはオリンピズムの真髄はスポーツが政治を超克するとい
う思想であることだ。そして、四年に一度は武器を置かなければなら
ないということだ。それを3回も破れば、決定的にNGである。

スポーツから永遠に追放されても仕方あるまい。

ここのところ小論での繰り返しになるが、オリンピックを平和構築の
手段にするには、政治的中立を矛として使っていかなければならない。
盾として使うだけでは、矛盾にならないだけに矛盾なのだ。このまさ
にパラドクサを分かってもらいたい。

(敬称略)

2022年3月24日

明日香 羊

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