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真面目ちゃんのはなし①

幼き日の私は「真面目な縷々ちゃん」。

「真面目だね」「しっかりしているね」「偉いね」、そんな大人たちからの言葉をにこにこで受け取ってすくすくとそれは成長していった。

私は、小学校高学年、中学校、高校、学級委員が代表して行う「あいさつ運動」とやらが実は好きだった。(「真面目な縷々ちゃん」は、だいたい前期または後期、あるいは通年、学級委員を好きでやっていた。嫌。)

いつもより早めに登校して、後輩・先輩・同学年に向かって大きな声であいさつしなければならないので、クラスを代表する学級委員でさえ面倒くさがる子も多かった。でも、私は、いや、「真面目な縷々ちゃん」は、そんな子達に強く言える程じゃあなかった。(ちゃんとやんなよ)って心の奥で声がする。自分に厳しい分、他人にも厳しかったんだと思う。けど、それを言ったら嫌がられるってわかってたから、そもそもボランティアだし、ただ学級委員ってだけだし、、そんなのわかってたから、言わなかった言えなかった。嫌。

これはほんの一例だけど、こういうことが重なって、真面目にやっている自分が馬鹿らしく思えてきた。結局、自分は自分で真面目にやりつつ、みんなには「ちゃんとなんてやってませんよ〜」みたいなフリをして顔をして、「へらぁ~」っとばかりするようになった。心のふつふつは煮えるばかり。嫌。

嫌!嫌!嫌!


「真面目は正しい」って、これは、違うかもって、ほんとうは気づいてたけど気づかないふりをしていたんだと思う。だって、そんなの、これまでを生きてきた「真面目な縷々ちゃん」が辛くなるだけじゃん。たぶん私は、''勝手に''真面目をやっているんだって。言いたくなかったよ。

悔しかったんだと思うきっと今も昔も。
もっとラクをするとか、楽しむとか、私もしたかったんだと思う。

私の中の真面目さを、私が否定することなく生きていくにはどうしたらいいんだろう。それを持ったまま、もっとふわふわ生きるにはどうしたらいいんだろう。正反対な他者を見て、自分の真面目さに辟易してしまわないようにするにはどうしたらいいんだろう。羨むことなく、憎むことなく、比べることなく、生きたいよ。


幼き日の私は「真面目な縷々ちゃん」。

いまだって。

「早く壊して」って泣いているみたい。

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