イルカ

『街の子ら』が見せた、過去・現在・未来の交差

作品紹介

FODにて配信中の『街の子ら』は、米津玄師『Lemon』や、あいみょん『マリーゴールド』のMV等を手掛けた山田智和監督と、アニメ『映像研には手を出すな!』の脚本を担当する木戸雄一郎、そして乃木坂46からの卒業を発表した白石麻衣と、現代を代表するクリエイターと表現者からなる本格ドラマだ。

視聴やあらすじの確認は、公式サイトからどうぞ。

以下、ネタバレありの考察。


【徹底した自己との対峙】

 どこか怪しげな運転手と謎めいた少女は、話が進んでいく中で、実は親子ではないことが判明する。では、一体この二人は何者なのか。明確な答えは出ないまま物語は幕を下ろすが、散りばめられているいくつかの要素から、この二人が由梨の前に現れた意味を考えていきたい。

 少女と共に仕方なく訪れた水族館で、水族館によく来ていた自身の幼少期を思い出した由梨は、全く喋らない少女に対し、喋るのが嫌いだった自身の過去を重ね、「あんた”も”わけありちゃんなんだね」と共感を示す。作中、少女と由梨を重ね合わせるようなカットが何度も入り、二人の間の境界はぼやけていく。そして物語後半では、由梨自身が少女と同じ放置子であった過去を明かす。放っておかれ、一人街をさまよい続ける少女は、由梨の過去の象徴であると考えられる。

 一方で、「お客さんとあの子、二人で向き合うのも悪くないんじゃないのかなと思って」と、強引に由梨を少女と二人きりにし、過去と向き合わせた運転手は、終盤で由梨と同姓同名であることが明かされる。会ったばかりである筈の由梨の苦悩に「わかるよ、わかる。あんたのこと」と理解を示し、決断を迫られている由梨に対し「どうする?好きにしな。決めんのは、”今”のあんただから」と優しく言葉をかける運転手は、由梨の未来の形の一つであると推測される。

 また、作中では、産婦人科らしき病院の待合室、度重なる吐き気、そして受付の「明日11時以降は飲食しないでくださいね。明日お待ちしています」という言葉など、妊娠、中絶手術(手術前は絶飲食が必要)を匂わせる描写が出てくるが、由梨の相手にとなる人物に対する言及は一切なく、終始由梨個人の葛藤として描かれている。こうした一貫した自己との対峙を象徴するように、物語の中では複数回、由梨が鏡に映るシーンが登場する。吐き気をもよおし駆け込んだトイレで、鏡の中の自分を見つめる瞳の色は暗く、少女を探している最中に通り抜けた鏡ばりの階段は、迷っている彼女の心を映し出しているかのようだった。

 運転手が「どっちを選んだにしても大半はつらいことばっかだけどね。……大半はね」と残したように、つらいのは「大半」、つまり「全て」ではない。産むか産まないか、どちらを選んだとしても、そこには希望もあるのだ。去り際の、運転手の背中を押す言葉と、初めて見る少女の笑顔。徹底して由梨が自分自身と向き合う姿を描いた本作は、自分から自分へ精一杯のエールを送った物語と言えるのではないだろうか。


【不安定に揺れ動く由梨の心】

 光が射し込むトンネル型の水槽の下で、ゆらゆらと揺れる水の影に包み込まれる。まるで由梨の心情を表しているかのような、水の揺らぎ。少女を探してさまよっていた水族館で、イルカの水槽を前にしても止まることのなかった由梨の足が、ある水槽の前で止まった。うつろな瞳で、魅入られたように見つめるその先にあるのは、漢字で「水母」と書くこともあるクラゲ。物憂げな眼差しの先で、望まぬ妊娠から母となることを迷う由梨の心とシンクロするように、クラゲがゆらゆらと揺れる。視線を外しクラゲの水槽から離れた後、何かを恐れるように一度だけ振り返る由梨の姿は、来たる未来から逃れようとしているようにも見える。

 物語の後半で、少女が放置子であると判明すると、自身もいわゆる放置子であったと明かす由梨。ぶっちゃけなんとかなる、自由で最高だった、おかげで今じゃ誰にも依存することなく何でも一人で余裕。そうした言葉の羅列は、自身の過去を、そして放置していた親を肯定しているかのように見えた。当然、そこから由梨が導き出す答えは「だからこの子も放っておいて大丈夫」となる筈である。しかし由梨は、目を見開き「だから、この子返さなくて良いんじゃないっすか?」と前述した内容とはチグハグな答えを紡ぎ出した。そして畳みかけるように、「だって、クソっすもんそんな親。クソ親っす。適当にヤって勝手に子供作って、はい育てられませんってことでしょ?クズ過ぎっす。クソクソ星人っすマジ」と言葉を吐き出す。それは、恐らく親と過去を肯定することで自身の心を守ってきた由梨が、押し殺していた親への怒り、憎しみ、寂しさを爆発させた瞬間だった。その瞳には色濃い悲しみと疲れが滲んでいる。しかし、その感情に浸る間もなく、眠っていた少女が母を呼ぶうなされた声が耳に飛び込んでくる。苦しそうに母を呼ぶ声は自身の過去、そしてお腹の中にいる子が自分を呼ぶ声のように由梨に響いたのかもしれない。その声を聞きながら由梨は我が身を振り返り、絶望する。「クソなのは、私……」と。唇を震わせ、苦し気にそうしぼり出した由梨は、運転手の肩で静かに涙を滲ませる。激しく降りしきる雨の音をバックに、由梨の心が大きく揺れ動く一連のシーンは、本作一番の見どころと言っても過言ではない。
 
 不思議な一夜が明けてからも、最後の最後まで、由梨の心は揺れていた。翌日の病院の待合室で、受付の呼ぶ声に反応を返せないほどに。虚空を見つめる瞳と乱れた息遣いから、まだ彼女が迷いの狭間にいることが見てとれる。それでも最後に、彼女は答えを導きだす。「あの」と口を開いた表情は希望に満ちているとは言い難いが、瞳に確かな意志を宿していた。そこに続く言葉を視聴者は推測することしかできない。しかし、彼女が何を選んだとしても、その先に希望が存在していることは間違いないだろう。

 こうした由梨の非常に複雑な心模様を、白石は繊細な表情の移り変わりで見事に演じ切った。表情という仮面の下に、押し殺した何かを微かに感じさせる演技。思えば、白石は過去にも、『DOLL』(2015年発売の『今、話したい誰かがいる』に収録された個人PV)という作品でこうした演技を披露したことがあった。人間の脆さや不安定さを描いた本作とは対照的に、『DOLL』では自己と乖離した他者評価の果てに、諦めを通り越し全てを呑み込む、人でなくなったような笑顔を最後に見せている。表情の下に複雑な感情を隠した演技を得意とする白石の、今後の更なる活躍に期待したい。


【街の子らは、誰の子か】

 少女が運転手の子供ではないと気付き、「じゃあ私関係ないんで…」と口にした由梨を、「関係なくない」と鋭くさえぎった運転手の声がやけに頭に残った。あの言葉は、少女が由梨の過去と重なるからという意図も含まれていると思うが、子供を放っておくことの罪の重さを視聴者である私たちに訴えかけているようにも思える。

 子供には自分を傷付けた親を恨む権利があり、その気持ちは絶対に誰にも否定することはできない。その子の痛みはその子だけのものだ。その一方で、第三者である私たちには、親を責めること以上にすべきことがあるように思う。いかなる理由があろうと子供を傷付けてはならないのは大前提だが、時に、社会の歪さが人を追い込むことがある。由梨が恨んでいた親と同じ轍を踏みかけたように、そんなこと望んでいない筈でも、どんな人にでも「クソ」になってしまう可能性があることを心に留めておきたい。自分自身が、身近なあの人が、道ですれ違う誰かが、何かの拍子でそうなってしまわないように。誰かの過去、あるいは今は、誰かの未来と複雑に絡まり合っている。誰かの痛みや悲しみを見過ごさないことは、そこに繋がる誰かを救うことになるかもしれない。

 一人が好きで望んで一人でいることと、その選択肢すら与えられず孤立してしまうことは、全く別物である。自分には関係ないと、傍観者になるな。街の子らは、私たちが生きる社会の子供で、誰も皆無関心でいるわけにはいかない。

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