見出し画像

#あの会話をきっかけに|くみちゃんと計算機

近年の「主婦の暇つぶしランキング」堂々の第1位は、動画配信サービスだという。
月額料金を支払えば、映画やドラマ、アニメが見放題という夢のようなコンテンツ。
かくゆう私も、その恩恵を受けている一主婦である。

学生時代は、足繁くDVDレンタルショップに通ったものだ。
一度にたくさん借りちゃうもんだから、返却期限ギリギリになってから徹夜で3本連続で観たり、返却日を過ぎてレンタル料よりも高い延滞料金を泣く泣く払っていたあの頃が、なんとも懐かしい。

「暇をつぶしている」と言うと主婦としてのステイタスが脅かされそうでイヤなのだが、私にとっては「失った時間を埋めている」という感覚だ。
学生時代に取りこぼしてきた名作映画の数々を回収するという大作業の他に、英語力の維持のためというれっきとした意味をもって楽しんでいるのである。

留学ブームよろしく90年代は後半、私は憧れの地アメリカの某大学キャンパスにいた。
世間知らずで教養もない私が、唯一持ち合わせていた好奇心だけでそこに存在していた。
とにかく「英語が話せるようなりたい!」「早く卒業して学位を取りたい!」と躍起になっていた私は、日本での英語学校での単位も認められ、3年余りで卒業し理学士号を修得。
そう、映画の卒業式シーンでよく見るあのガウンを着て、あの憧れの四角い帽子をアメリカの空高く投げ上げることができたのだ。この私が、奇跡的に。

小さい頃から背も低く、勉強もスポーツも普通程度、絵も音楽も中級レベル。
それ以外の特徴と言えば、好奇心が旺盛すぎて常に先生や両親の頭を悩ます種だったことくらい。
それでも自分には何か1つは得意なことがあるだろうと信じて見つけたのが、「恋すること」だった。

自慢じゃないけど、保育園の頃にはもう好きな男の子がいてラブレターを渡していたから、これはもう生まれつきで親のせいとしか言いようがない。
物心がついたころからずっと結婚に至るついこの前まで、誰かしら好きな人がいたり、ほとんど彼氏が途切れなかったことは私のせいじゃない、と今でも勝手に思っている。

そんな特技が裏目に出てしまった。
留学を目前に控え、恋に落ちてしまったのだ。
しかも「英語学校を退学して一緒に暮らす」と言い出したから、もう最悪。
恋に恋してる状態で、完全に頭の中がお熱な状態だった。
退学を申し出るには、まず「メンター」と呼ばれる学生カウンセリングを担当するスタッフに会うのが鉄則だった。
私のメンターは「くみちゃん」と呼ばれ学生みんなから親しまれている、ダントツ人気の女性スタッフだった。
容姿端麗、才色兼備、海外大学卒業。
まさに非の打ち所がない、憧れのパーフェクトウーマンだった。

くみちゃんのオフィスは建物の最上階にあった。
街や田園風景を越えて海までが見渡せるリゾートのような快適空間なのに、いつもカジュアルな学生がひっきりなしに訪れ、絶えず賑わっていた。
その日も時間を持て余したギターを抱えた男子学生やお喋りに勤しむ女子学生らの中に、ポツンと私一人。
海に沈みゆく夕日を贅沢に眺めながら、1日の終わりをくみちゃんのオフィスで迎えようとしていた。
オレンジ色に照らされたくみちゃんの横顔に向けて、控えめに「退学の意志がある」ことをほのめかすと、目線を変えず、そのままだんまり。
そしてひと言、「あの彼氏?」
「!」沈黙の後のひと言は、何よりも怖い。
くみちゃんは知っていた。
「退学して、何するの?」
「...2人で暮らそうと思って...」
また、だんまり。
かと思いきや、いきなりデスクの引き出しをバンッと開け、バッと計算機を取り出すと、
「えっとー、2人で暮らすとなるとぉ、まず1ヶ月の家賃がこれくらいでしょー?」
カチカチカチカチ...不自然なくらい、大きな声。
「敷金礼金も入れて、これくらいでー、...光熱費がこれくらいでしょー?」
カチカチカチカチ、カチカチカチカチ...計算機のキーを叩く音だけが、鳴り響く。
「あとはー、食費に日用品に携帯代がこれくらいでー...」
カチカチカチカチ、カチカチカチカチ、カチカチカチカチ...鳴り止まない計算機の音。
そして、クルッと計算機の画面をこちら側に向け、
「はい、これ、1ヶ月の生活費。2人で稼げる?」
そこには見たことのない数字が、横一列に並んでいた。
数字に疎いこの私にでも到底無理な金額であることは、一瞬で理解できた。
目が覚めたとともに、恥ずかしさで一杯になった。
「無理です...」
現実を受け入れるしかなかった。

私がお熱だったことも、留学を諦めようとしていたことも、努力することから逃げようとしていたことも、くみちゃんは知っていた。
最近うだつが上がらず、単位を落としていたことも全部お見通しだった。
「中途半端な自分を変えたくて、留学を選んだんでしょ?」
「新しい自分に出会いたくて、留学を選んだんでしょ?」
「ここで諦めて逃げて、どうするの!?」
計算機を叩いただけで、そう教えてくれた私の「メンター=助言者」、くみちゃん。

数年後、再会した際にこの話をしたら「全く覚えていない」と笑うお茶目さが彼女らしい。
今でも連絡を取り合い、毎年の誕生日にサプライズプレゼントを送りつける、私。(月の土地とか 笑)
スマホやパソコンで連絡をとる時代なのに、わざわざ封筒やハガキに切手を貼って手紙を交換するこの関係性が、たまらなく好き。
今はもう無きあのオフィスでのくみちゃんとの会話は、月日を超えて形を変えて今でもこうして2人を繋げている。一生感謝しても仕切れない。

最近、主人が個人事業主になったのをきっかけに、簿記の勉強を始めた。
算数はもちろん数字の羅列に弱い私だが、やってみるとパズル感覚でなかなか面白い。
何をやっても中途半端だったのに、1つのことをやり遂げようとする力がついている。
カチカチ計算機を鳴らしていると、あの日のくみちゃんとの会話が鮮明に思い出される。
動画配信サービスもそうだ。
留学していなかったら英語を話すこともできなかっただろうし、こんなにも海外の映画やドラマを心から楽しめることはなかっただろう。

あの日、計算機の画面を見せてくれたくみちゃんに感謝するとともに、これからも現実から目をそらさず、前を向いてたくさんのことにチャレンジしていきたい。
何が1番大切なのかを忘れず、努力を怠らず、自分のベストを尽くしていきたいと思う。
近年の「主婦の暇つぶし資格ランキング」では簿記検定はランク外だったけれど、私はこの秋、お熱がなければ受験する予定だ。
もちろん、息抜きに海外の映画やドラマを観てリフレッシュしながら。

あの会話がくれたこの日々が、これからもずっと続きますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?