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いつか誰かに誉められる

幼稚園か小学校低学年かの運動会で、私は運動も走るのも苦手だったけれど、全員リレーで走ることになった。立派な成績を残せないことはよく分かっていたけれど、走り終わって家族が陣取るシートに駆け寄った私に母がひとこと。「へらへらとみっともない走り方だった」と。

その瞬間、母親だけでなく世界に対して自分を完全に閉じてしまった。誉められたことのない子どもがどう育つかは私にはよく分かる。どうしてたったひとこと、よくがんばったねとまず言えないんだろう、人っていういきものは。

今思えば、母は私に一番になることは期待していなかったにしても、娘を何かの形で自慢できるものにしたかったのかもしれない。なぜならば、娘に自分を投影していたから。迷惑極まりない。

最近、熊本で橙書店を営む田尻久子さんのエッセイ「みぎわに立って」を読んだ。その中に、「骨を誉める」という文章がある。人がなくなって焼骨のあと、火葬場の人が、「お年寄りの割にりっぱな骨です。」とか「のど仏の形がきれに残っています。」とか、故人を誉めてくれるというお話。

父が亡くなった時にも誰かが誉めてくれたのだろうか。そんなことには全く気が付かなかったなと思いながら、私の焼け跡の何を誰が誉めてくれるんだろうと想像する。きれいな灰色ですね、灰の粒がきれいに揃ってますね、思ったよりよく焼けてますね。なんでもいい。その文章を読んで、少なくとも死んでから誰かが誉めてくれるらしいということを知って、少し安心した自分がいた。

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