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徒労感と信念と

正直に本音を書こう。

校長も教頭も、誠実ではない。正面から課題に向き合うことをしない。保護者の言葉を歪めていく。そして、話をすり替えようとする。

こんな人間が、教育産業で未来ある子ども達と関わっているのか、と思うとドロドロの感情が沸き上がってくる。

ここまで言葉が通じない、感情が通じない、自分達を正当化するのに必死な人達に巡り合うことはあるのだろうか。

振出しに戻されているのだろうか?

気が付くと、校長も教頭も都合よく自分達を正当化し、言葉を歪めていく。

7時間以上に及ぶ会議を経て、その後も求めに応じて次の会合の準備をし、それ以外にも対話を重ね、それでも、結局気が付くと、何も積みあがっていない。

校長も教頭も自己正当化のために、今までの事を「無」にする。校長も教頭もイノセントで、傷ついたのは自分達だとばかりの、こんなに私達頑張ったてきたのに!と言わんがごとくの、色んなことを除けた発言と対応。

正直、頭にすらこない。

ただ、なんでこんな人が校長や教頭なんだろう?とドロドロの感情が心の中に渦巻いていく。

こんな人が10年後20年後の日本経済を担っていく、未来ある子ども達の教育産業に「先生」として携わっているかと思うと、正直、日本は終わったなと思う。

ここで折れるのか?こんなところで折れちゃいけない。

こんな人たちに好き放題させるのか?日本の教育は後退しているのだろうか?取り残されているのだろうか?こんな人たちを前にするとすべてが頷けてしまう。

何が正解なんだろう?信じるの自分の信念のみ

10年変えることができなかった。特にこの3年は変遷を見てきた。また、「やっぱり無理でした。次の世代でお願いします。」となるのか?

ドロドロの感情と向き合い葛藤しながらも、思う。

進む先に、何も正解なんてない。信じるのは、今の自分の思考と行動。

過去に行動を起こし打ち砕かれてきた先輩方と、今の保護者達との会話。積みあがっていく思いと、言葉と、会話の数々。これらにしっかりと耳を傾け、自分はその上でどのように判断し、何を発言し、進んで行くのか。

折れそうだ。けど、折れたくなく。

勝ち負けじゃないけど、折れたら未来はないように思う。

一時の負荷に耐えきってみせる、と自分に言い聞かせる。なんでこんな思いをしてまでやる必要があるんだ?と思う瞬間が正直ある。ないと言ったら嘘になる。きっと過去の先輩方もそう思って打ち砕かれてきたのだろうと拝察する。

まだたった2カ月弱の期間なのに、1年分以上に疲弊している。校長教頭ってなんでこんなに人に心理的負荷をかけるのが得意なのだろう。

折れないと決めているのは、ここで折れたら、やっぱり新しい未来がやってこないからだと思う。持続的とかエコシステムとか、美しい言葉があって、そんなことを考える余裕もないのだけど、究極、その美しい言葉たちに助けられる感情がある。

変化が起きる時、人は怖いのだろう。まして、校長教頭含め、私の界隈では、公教育に関わる人は変化がとかく怖いのだろうか。

「未来をつくるためには勇気が必要である。」P.F.ドラッガー

人の恐怖をも受け止める隙間を心に持ち続けることが今は求められているのかもしれない。

きっと未来は意志によって変えることができる。皆が良かったねと笑い合える日がくることを期待してる。

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