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ずっと持っている靴べらがなくならない話

もうずいぶん昔の話。出版社を辞めて、自分で仕事を始めるしかないと思って、いくつか物件を探し始めていた頃、作家の沢木耕太郎さんと席をともにする会食があった。大作家を前に自分の身の上話をするつもりなどなかったし、これまで付き合いのあった人たちとはすっぱり縁が切れることになるだろうと腹をくくっていた。独立するというより去るという感覚だった。しかし、同席した編集者が話題に困ったのか私の独立話を急に切り出した。

沢木さんは、わたしが会社を辞めることが意外だったようで、驚いて心配そうな顔をしてくれたが、「そうかぁ」と腕を組むと「じゃあ、ひとつだけ」と人差し指を立てながら「仕事場と自宅は、必ず別にすること」と真面目な目で私を見た。その会社を辞める人などいなく、周囲の誰からも何も言われないので、沢木さんの言葉はわたしにとってたったひとつの助言となった。

実際に自宅以外の家賃を払えるのか見通しはなかったが、助言どおりの環境で仕事を始めると不思議なくらいすぐに忙しくなった。そして、それと同時に私は滅多に家に帰ることがなくなった。いただいた言葉を胸の中で〈そういう意味ではない〉とわかっていながら、わたしは仕事だけに没頭した。

 いま私は仕事場と自宅が一緒になっている。玄関にある靴べらは私が独立したときの記念として沢木さんが海外で買ってきてくれたものだ。助言は踏みにじってしまったが、靴べらだけはずっと私の近くにあってなくならない。(了)



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