断髪小説~安奈~

ドアが開くと、受験勉強の手を止めて母を迎えに玄関まで急いだ。
普段は母が帰ってきても、出迎えることなどない。
しかし、今日は母が私のために髪を切りに行ってくれたことを知っていた。
「ただいま」
笑顔で帰ってきた母は、普段は被らない帽子を被っていた。
ゆっくり帽子を脱ぐと、そこには刈り上げ、スポーツ刈りになった母が立っていた。
長い髪の母しか知らない安奈は言葉が出てこなかった。
母が自分を心配させないように振る舞っていることが安奈にはよく分かった。
「刈り上げ、触ってみて、ジョリジョリするよ」
刈り上げになった母の後ろ頭に触れてみる。
長く柔らかった髪はなくなり、男性の髪型のカツラをかぶったような母の頭。
「ごめんなさい」
安奈は思わず謝ってしまった。
「大丈夫よ。それより受験生は頑張って勉強してよ」
「うん、仕事は大丈夫なの」
「事前にこんな髪型にしますって言ってあるし、仕事中は髪を覆う帽子を被ってるから心配ないわよ」
その日はなかなか勉強が手につかなかった。
母が鏡を眺める時間はいつもより長かった。
3月になり安奈は望んていた国立大学への合格を手にした。
自宅から通ううこともできるし、学部も希望通りだ。
高校も卒業し、大学入学まではゆっくりと過ごすことができた。
安心した気持ちとともに、ここ数週間抑えていた気持ちが盛り上がってきた。

「お母さん、私も髪を切りたいの」
「えっ、どうして」
母は驚いたように言った。
安奈が長い髪を大切にしてきたことは母親である恭子が一番よく知っていた。
安奈の髪は、手先が器用な恭子が切ってきた。
と言っても、プロのようなヘアカットとはいかず、昔のワンレングスのような髪型になっている。
「私が切ったからって、無理しなくて良いのよ」
恭子はスポーツ刈りからベリーショートにまで伸びた自分の髪を触わった。
「そうじゃないよ。大学に入れば、今までの私を知らない人ばかりだから、長い髪を切る良い機会かなと思って。お母さんが切った場所で、私も切ってみたいの」
安奈は明るく笑顔で言ったが、その決意は揺るがないことを母である恭子は悟った。
恭子は正直に和子の床屋さんのことを話した。
安奈は、お店の中に男性がいるのは抵抗があると話しながらも、挑戦することを決意した。

大学入学前に散髪したいという安奈の希望を叶えるため、恭子はすぐに和子に連絡を取った。
和子も即座に応じてくれ、同じ大学生で散髪に挑戦したことがある幸子の存在を教えてくれた。
安奈は散髪前に幸子、和子と会うことにした。

ファミレスで緊張した面持ちの安奈を前に挨拶を終えた二人は話し始めた。
「無理して短くしなくても良いのよ」
和子が言った。
切ることは決めたものの、どれだけ切るのか、どんな髪型にするのか、安奈にはまだ迷いがあるようだった。
「切ることは決めたんですが、どんな髪型が似合うのか分からなくて」
幸子がスマホを見せながら話し始めた。
「こんなマッシュルームカットはどうかな」
安奈はスマホの画面を見つめ、目を見開いた。
「個性的な髪型ですね」
「無理強いはしないけど、安奈ちゃんの雰囲気に似合うと思うな」
ほぼ同い年の幸子に言われ、今まで想像もしなかった髪型について考え始めた。
「よくあるショートカットじゃ面白くないし、思い切ってやってみます」
少し緊張が解けたのか、笑顔が見られた。
「後ろを刈り上げるかどうかは、当日までに決めたら良いわね」
和子が言うと、刈り上げという言葉に安奈の顔がこわばった。

散髪は土曜日の昼からに決まった。
安奈はもう一度幸子に会い様々な質問をした。
「バリカンは痛くないですか」
「顔剃りってどんな感じですか」
幸子は丁寧に安奈からの疑問に自分の体験を交えながら答えた。
「幸子さんだけは立ち会ってくれませんか」
最後に安奈から頼まれ、幸子は快く頷いた。

その日は春を感じさせる暖かい土曜日だった。
その後も幸子と連絡を取り続けた安奈は、散髪のライブ中継にも挑戦することを決意していた。
和子の床屋さんのトリポールの前で、幸子、恭子、安奈は記念写真をした。
さすがに床屋さんの前まで来ると、安奈の顔には緊張と不安がはっきりとあらわれていた。
美容室にすら行ったことがない高校生がいきなり床屋さんに挑戦するのだから無理もないと幸子は感じていた。
このドキドキは他人がどう言っても解消することがないことは幸子がいちばんよく分かっていた。
「いらっしゃい」
中で待っていた和子さん夫婦が迎えてくれた。

和子に促され安奈はコートを脱いだ。
白いハイネックの背中を長い痛みのない黒髪が覆った。
「ここに座って」
大きな散髪椅子に座らされた安奈は、実物以上に小さく見えた。
「まだ中継してないから自由に話して大丈夫よ」
和子さんが言った。
店内に知らない男性がいることには抵抗があるものの、ライブ散髪には挑戦することを安奈は伝えていた。
恭子は無理しなくて良いわよと言ってくれたものの、母の挑戦を詳細に聞いた安奈には自分も頑張らなくてはという思いがあった。
その母は後ろの待合席に座っている。娘の散髪は見守るものの、敢えて近づかないでいようという心持のようだ。
幸子が櫛を手に近づいてきた。
「最後に梳いても良い」
「はい」
安奈は答えた。
幸子は丁寧に丁寧に安奈の長い髪を梳いていく。
「じゃあ、中継をはじめるわね」
不意に和子さんが言った。
安奈のブラッシング場面から中継が始まった。
「今日のモデルの安奈さんです。この春から大学生になります」
和子さんが鏡の前に置かれたカメラに向かって話しかけ、安奈を紹介した。
慌てた安奈は座ったまま頭を下げた。
梳かれていた髪が前に垂れてきた。
「安奈さん、一言どうぞ」
急に言われた安奈はさらに慌てた。
しばし沈黙した後、
「思い切って髪を切ることにしました。今まで一度も短くしたことがないので、不安と心配でいっぱいです」
正直に話した。

「今日の視聴人数は3863人です」
幸子は驚いた。自分のときよりもはるかに多い。いつの間にかそんなに多くのファンを獲得したらしい。
それなりのまとまったお金が恭子さん母娘に入るのではないかと思い、変な安心感を覚えてしまった。
安奈の髪を梳き続けていた幸子の側に大きな鋏を持った旦那さんがやって来た。
長い髪を安奈の体の前で纏めた。
白いハイネックの首部分を折り畳んでいく。
襟紙を安奈の首に巻き付ける。
襟紙の上をタオルで覆い、ケープを巻きつける。
安奈はその度大きく頭を動かす。
無理もない、床屋どころか美容室にすら行ったことないのだから、と思いつつ安奈のぎこちない動作に幸子は笑ってしまった。
安奈は心配そうな目で幸子を見た。幸子が笑った意味は伝わっていないようだ。、
「じゃあ散髪していくね」
旦那さんが大きな声で宣言した。
以前も使った大鋏で断髪するようだ。
散髪という声と大きな鋏を見て安奈の顔にさらに不安の色が濃くなった。
旦那さんはワンレングスの厚みのある安奈の髪を手で触りながら、和子さんに言った。
「どこに鋏を入れようか」
夫婦で安奈の髪を触りながらの相談している。その様子は安奈の髪は安奈自身のものではなくなってしまったかのようだった。
夫婦の話が終わった。
今度は和子さんがカメラに向かって語り始めた。
「安奈さんにはマッシュルームカットに挑戦してもらいます。私も人の頭をマッシュルームカットに散髪したことがないのでドキドキしています」

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