床屋への旅~和~

和(なごみ)は渋谷駅前の雑踏を歩きながら、ふと笑いが込み上げてきた。

 自分が挑戦しようとすることが楽しみでもあり、自分がそんな勇気を持っていたことが驚きでもあり、自分がこれから体験することへの怖さも入り交じり、味わったことがない奇妙な心持ちになり、不思議な笑いとなって表情に表れた。

 方向音痴の和はスマホの画面を眺めながら、なんとか雑居ビルの2階に入居しているファミレスにたどり着いた。

 ドアを開けると、目当ての男性はすぐに分かった。窓際の席に一人で座るその男性は冬だというのにアイスコーヒーを飲んでいた。大柄でがっしりとした筋肉質の男性だ。細身の和の2倍、いや3倍くらいの大きさがあるような気がする。

 「こんにちは」

 恐る恐るといった感じで和は挨拶をした。

 「こんにちは」

 大柄な男性は、その体つき通りの太い声で挨拶を返してきた。

 和は少し怖くなり、このままこの場から走って逃げようかと思った。

 そんな和の気持ちを見透かしたかのように男性は言った。

 「そこに座って」

 男性は向かいの席を指さして言った。

 「はい」

 マスクの中で、外には聞こえそうもない声で和は言った。

 「何か食べる」

 「大丈夫です」

 マスクの中の和の声は相手に届いただろうか。

 「じゃあ、イチゴパフェでも頼もう」

 男性は勝手に注文してしまった。

 

 幾ばくかの沈黙が流れた後、男性が言った。

 「改めて名乗るけど、僕は博則。床屋を経営しています」

 「和です」

 「和さんは中学生で間違いないのかな」

 「はい。でももうすぐ高校生です」

 「こんな時期に外で遊んでいて良いの。受験は大丈夫」

 「大丈夫です。高校はもう決まっているので」

 「それはおめでとう」

 博則は初めて見せる笑顔で言った。

 「じゃあ今回は卒業散髪だね」

 更なる笑顔を見せながら博則は言った。

 そんな博則の顔を見ながら、和はここに至る道のりを思い出していた。

 和は自分がそんな嗜好をいつから持っていたのか分からない。

 ただ、物心ついたときから美容院で髪を切られるのが好きだった。

 母によく連れて行ってもらった美容院。美容師に髪を触られると、なぜかドキドキしてしまう自分がいた。

 美容院の椅子に座ってドキドキする自分を持て余しながらも、毎回美容院に行くのが楽しみで仕方がなかった。

 中学生になり、スマホを自由に操作するようになると、和の世界は指数関数的に広がっていった。

 髪を切られている自分が抱くのと同じような感情を持つ人が、この世の中には他にもいることに安心感を覚え、そんな人たちが作る世界にのめり込んでいった。

 その中で出会ったのが、博則が営む理髪店だった。SNSで知り合った幸子という女性が教えてくれたその床屋は、通常は普通の理髪店として営まれているが、ある嗜好を持つ女性が来ると、特別なサービスを提供してくれるということだった。茶髪でさっぱりとした髪形をした幸子が間を取り持ってくれ、和はこのファミレスで博則と出会うことになった。

 「どんな髪形にしたい。希望はある」

 「思いっきり、バッサリ切りたいんです」

 「うーん」

 そう言いながら、博則は和の髪を眺めている。やや癖の入った鎖骨を超える長さの和の髪。その髪はまだ肩より上で切られたことがない。厚めの前髪もやや癖がつき、ウエーブが掛かったようになっていた。真っ直ぐに伸ばせは目を覆う長さになりそうだった。

 「どれくらい切ってみたい」

 「お、お任せします」

 希望の髪形がない訳ではなかったが、敢えて任せてみることにした。また、それが幸子からのアドバイスだった。

 しばしの沈黙が流れた。

 「僕みたいなスポーツ刈りでも良いの」

 「えっ、さすがにそれは困ります」

 和は慌てて言った。

 「冗談だよ。さすがにそこまではしないよ」

 博則は笑って言った。

 和は安堵するとともに、スポーツ刈りという言葉に言い知れぬ魅力を感じていた。

 「じゃあ髪形は当日に伝えようかな」

 博則は勿体ぶるように言った。

 「この人に切られるのか。バリカンも使われちゃうのかな」

 和は心の中で呟いた。空になっているイチゴパフェの味は全く覚えていなかった。

 博則の店は人通りの多い商店街の中にあった。

 その日は通常営業は休みということだったが、和の散髪のために開けてくれているということだった。

 和は再びスマホとにらめっこをしながら博則の床屋にたどり着いた。

 初めてトリコロールを間近で見る。

 お店の前を何度か往復する。

 ドキドキして入ることができない。

 次こそ入ろう、次こそ入ろうと何度も思うのだが、お店の前に来るたびに、もう一往復してからと躊躇ってしまう自分がいた。

 「どうしよう。入ったらもう帰れないし。どんな髪形にされてしまうのだろう」

 これまでも何度も自問自答してきたが、まだ自分に問い直している。むしろ今までより切迫感を持って、自分自身に尋ねている。 

 やっぱりやめよう。帰ろう。後でこの前聞いたLINEのアカウントにお詫びの文章を送ろう。そう思った瞬間、床屋のドアが開いた。

 「おいで」

 博則が出てきて手招きする。

 「あっ」

 和は小さな声が出た。そして、もう逃げられないという覚悟を決めるとともに、中に向かって歩き始めた。

 「みんな最初はなかなか入れないんだよ」

 博則は笑いながら言った。

 「ある女性は昼の約束だったのに、入ってきたのは夕方になってからだったし・・」

 博則はなぜか嬉しそうだった。

 「コートを脱いで」

 そう言って、緊張する和のコートを手際よく脱がし、ハンガーに掛けた。

 「緊張してる」

 「はいっ」

 消え入りそうな声で和は言った。

 「じゃあ始めようか」

 

 博則はそう言って、和を3つある散髪椅子の真ん中の席に案内した。

 初めて座る散髪椅子は黒く大きくがっちりとしていた。美容院にある椅子とは違い、大きな肘掛けも付いていた。

 恐る恐るといった感じで和はゆっくりと腰を下ろした。

 すぐに博則の手が伸びてきて、和の髪に手が触れる。

 和の痛みのない、柔らかい、やや癖の入った髪に触れながら手櫛を入れ、博則が言った。

 「うん、良い髪だね」

 男性に髪を触れられるのは初めてだ、と和は思った。今まで通った美容院ではいつも女性に髪を切られてきた。

 博則は大きな櫛で和の髪を梳かし始めた。

 そのまま無言で櫛を動かす博則の姿を鏡の中で見つめていた。

 沈黙の時間は和の緊張を否が応でも高めた。

 ふと博則が言った。

 「刈り上げおっかぱにするね」

 和が答える前に博則が椅子の高さを上げ始めた。

 無機質な電動音が店内に響くとともに、和の座った椅子が上がり始めた。

 (やっぱり刈り上げおかっぱなんだ)

 今まで、散々画像では見てきたし、自分でも興味のある髪型だったが、本当に自分がおかっぱになると思うと恐怖が込み上げてくるのが分かる。和の顔にはっきりと不安の色が浮かんだ。

 次の瞬間、椅子が上昇するのが止まった。と言うより一番上に到達してしまった。同時に博則は慣れた手つきで和が足を置いていたフットレストを外してしまった。

 和の足は宙ぶらりんに空中に浮いてしまった。もう逃げられないんだなと悟った。

 

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