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4歳で冤罪をかけられて先生に怒られた話

「人生で一番やるせなかった出来事は?」と聞かれた時、僕は決まってこの話をする。他人からするとそこまでひどい話ではないと思うかもしれないが、少なくとも僕にとっては重要な、ある種分岐点のような出来事だった。

これは僕が4歳の時に経験した出来事だ。当時保育園に属していた僕は日々を平凡に生き、子どもを全うしていた。何せ20年近く昔の話なので定かではない。しかし客観的に見ても、当時の僕はやはりごく普通の子どもだった。

午後の外遊びの時間。木製のジャングルジムのような遊具で遊んでいた。そんな僕に担任がこう言った。「裕介くん。ちょっと先生とお話ししようか。」

当時の僕は、「何だろう。大事な話かな」とぼんやり予想していた気がする。しかしその予想は直ぐに別のものに切り替わる。先生の隣にいつも話す友人Aと友人Bがいたからだ。

4歳といえど、重要な話を本人以外のいるところでするはずないと判断するのは困難ではなかった。深刻な予測がすっかり杞憂に終わった僕はあからさまに油断しきった態度で先生についていった。

「ついていった。」とあるが、それは先生が教室の中へ誘導したからだ。「話とはいえ外でするのは周りに迷惑がかかるだろう。」そう考えた先生の配慮のようなものだと僕は思っていた。

後に裁判の舞台となる空き教室までの道のりを、僕はAとBの2人と会話をしながら歩いた。先頭を歩く先生が終始無言を貫いていたが、特に気に留めることもなかった。

Aが言う。
「なあ、何の話だと思う?」

それにBが続ける。
「さあ、全くわかんないや。」

順番が来た僕もBと同様に
「全然わかんないよね。」
と相槌を打った。

2人の発言を聞いたAが元気良く言った。
「多分俺らだけ特別に何かやらせてもらるんだよ!」

今思えば何と浅はかでおめでたい予測だったであろうか。しかし4歳児が3人集まってできる予想はその程度でしかなかった。

それを聞いてBと僕は「まあ、そんなところだろう。」と言った表情でAに応えた。

一通り会話を終えた所で目的地に着いた。普段使われていない空き教室だ。僕たちがこの教室を使用するのは年に1回の夏祭りか卒園式の歌の練習をする時ぐらいであった。

教室に着いた僕たちは、長机に全員で座った。先生と僕たち3人で1対3になるような構図だった。

僕たちの席順は左からA、僕、Bの順番だった。特に意味はなかったと思う。

これから何が始まるんだろう。なまじわくわくした表情をして先生の言葉を待っていた3人に先生は努めて神妙な面持ちでこう言った。

「今日、C君がお休みしていますね。」

それは僕の予想の範囲外の言葉だった。確かに朝の朝礼でCの欠席は聞いていた。ぼんやりとした記憶だが、確か理由は体調不良だった気がする。なぜ今Cの話をするんだ?と訝しげな目で先生を見つめていた僕、あるいは僕たちに先生は続けてこう告げた。

「貴方達が、昨日帰りのバスでC君の夢を笑ったからじゃないですか?」

この一言に対しては流石に、予測という概念では語り尽くせないほど思わぬ一言であった。なぜそんなこと急に言うのだろう。僕は思わず驚いた表情をしたのを覚えている。

なぜなら、僕には昨日Cの夢を笑った記憶どころか、Cと話した記憶さえないのだ。先生の口から突然、話してもいない友人を笑ったという疑惑を突きつけられた僕は混乱して言葉を紡ぎ出せなかった。

ここでひとつ、僕の記憶が間違っているという疑念を抱いている方々に決定的なアリバイを突きつけておく。

僕は年少の頃、確かに保育園バスを使用して通学していた。しかし僕は4歳ながらも自分にマイルールを課していた。それは「帰りは誰とも話さず頭の中で自分の好きな曲を再生すること。」というものだった。

決して話す相手がいなかったわけではない。事実行きのバスでは友人と話していた。なぜ帰りだけ話さないのかと言うと、家までの時間を長く感じたくなかったからだ。頭の中で音楽を流していれば、気づいた時には自宅に着いている。それが当時の僕にとってはなぜか心地よかった。

このマイルールは僕がバス通学をやめる年中に上がるタイミングまで愚直に守っていたものであった。よって僕の潔白は決定的だった。

話を戻す。言葉を発せなかった僕は手持ち無沙汰になりとりあえずの思いでAとBの顔色を伺った。

すると、明らかに後ろめたそうな顔をしている2人がいた。ああ、なるほど。この疑惑自体は事実なのかと僕は察した。

となるとここからはどうやって自らの無罪を証明するか、その点に意識をフォーカスさせた。

しかし、残念ながら未熟すぎた僕には自分の潔白を説明する語彙力もなければロジックも持ち合わせていなかった。

そこからは検察側の独壇場。被疑者3人にお叱りの嵐を浴びせ、最終的には同じことを繰り返さないという約束を僕らに交わさせた。

僕の記憶が正しければAとBは泣いていた。正確に言えば涙ぐんでいただけかもしれない。しかし少なくとも僕にはそう見えた。

この事件から3年後、小学校に入学した僕は弟の夏祭りの付き添いで再び保育園を訪れた。

その時にはもう冤罪を説明できたが敢えてしなかった。そんな小さなことで喚いていると思われたくなかった。それに先生と話したくなかったのも大きな理由だった。

この出来事から学ぶ教訓はただ一つ。

「他人と対等に議論できる程度の、知識と素養は所持していよう。」

ということだ。言葉は複雑な感情を表現するために必要な手段である。これが欠けていると上手く言いくるめられる上に何が正しいかも見失う恐れがある。

そう考えると、このことを教えてくれたあの人はやはり「先生」と呼ぶべき存在だろう。

本来学ぶべきことと、若干かけ離れていると感じるが、これもまた一つも経験だろう。

そろそろ筆を置くことにする。なぜなら普段こんな長い文章を書いた経験がないため、締め方がわからないからだ。

ここまで僕の拙い文章を読んでくれた人には感謝したい。

以上