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ちゃんと書くこと -2021年10月2日

文章をきちんと書くってどういうことだろう。
おじさん構文ってあるじゃないですか。句読点が無意味に多くて、絵文字が大袈裟な「おじさん」にありがちな文章のことなんだけど。

人は考えながら文章を書く。「おじさん」は、きっと棲み分けが出来てないんだろう。頭の中で考えを整理して、文章を構築するという作業が億劫なのかな。だから、口語で話す内容の「文字起こし」に過ぎないのだ。これが、おじさん構文の内容がつまらない理由だと思う。
その中身の無さと、おじさんと言われるくらいの年齢で社会経験をそれなりに積んできたであろう書き手の男性とのミスマッチが独特の哀愁を生み、若者に「おじさん構文」として揶揄され、おもちゃにされている。ある意味、なんだか可哀想な存在なのかもしれない。

文章の書けないというのは、考えがないということに直結する。「いや、僕だって色々考えてるんだ」と反論されそうだが、人間なのだから当たり前だ。ここで言う考えというのは、仕事をどう進めようかな、とか、家族にサプライズをどうやってしようかな。ということでは無い。その行動に至るまで、また、その人生を選ぶに至る哲学的な思考である。
「おじさん」は、それが無くとも何とかなってきたんだろう。妻や子供がいるかもしれない。仕事で成果を残しているかもしれない。けど、なんだかよく分からないまま生きて、死んでいく。人生の核心に触れることなく死んでいく。もとより、人生の核などというものは知らない方が幸せに生きれるのかもしれない。深く考える人ほど、思考の渦に呑まれてしまう。

高度に考えることは人間にしか出来ない。しかし、社会を生きる上で必要とされるのは人生を徹底的に考える能力では決して無く、もっと別の思考回路である。これはもう、生まれつきのようなものでどうしようもない。型にはまり、無難であることほど上手く生きれるが、人間の本質はそこには無い。この社会は、いかに適合できるかということのみが求められる。
時代によって、社会的立場によって求められるものは全く異なる。鎌倉時代の武士の嫁になれば後継を求められるだろう。しかし、現代では武士などという階級はそもそも存在しない。その時代では当たり前の様なことが、もう全然通用しない、それが社会なのである。

社会は何で決まるか。多数派である。もちろん、異性愛者で子供を産む人間だけが生き残るのだから、異性愛者で子供を産む人間のための社会が出来上がる。本当にただただ当たり前の話なのである。

ぐだぐだと書いたが、結局、自分は自分の為に文章を書いているのでしかない。何を求めているかは書いている内に曖昧になり、輪郭を失ってゆく。思考が氾濫しやすい私の頭を書くことによってクールダウンするような役割を持っているのかもしれない。

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