見出し画像

祖母に褒められたい母を私が褒める。そんな母の日。

母は褒められたいんだそうな。
自分の母(私の祖母)に。
育てた野菜が上手に出来たねとか
家事も育児もよくやってきたねとか
とにかく褒められたいんだと。
 
数年前にそんな事で涙していて
娘の私はなんてくだらないんだ!
褒められたいための人生なんて
誰の人生なんだよ!と言い放った。
 
娘って切れ味鋭いナイフのようで恐ろしいと思ったであろう。

きっと私も自分の娘にそう言われる日が来るのだろう。

それでも褒められたい呪縛に取り憑かれた母は
おかしいと思った。
 
  
そんなことがあっての今日の母の日。
朝から母のLINE。
「おばあちゃんたら、この前GWに会ったのに
しばらく顔も見せないで、元気なのかい?だって。
もう忘れたのかしら。
私のことは直ぐに忘れるのに
京都から◯子(母の妹)が来る日は
ちゃんと覚えているのよ。」

母としては、祖母に最大限尽くしているのに
それすら忘れてしまったのか。
年に数回しか来ない妹のことは
ちゃんと覚えているし、
いつも妹は褒められている。

の負の塊が底にあるのだ。

この塊はどうやって形成されてきたんだろう?
私は今、5才の娘への褒め方で悩むことが多い。
単に褒めたのでは、目的が褒められることになってしまうので、そこを避けたいのだ。

野口晴哉先生の本
叱り方、褒め方の中に
綺麗に掃除した子供を、綺麗に掃除するね
と褒めた。
そして、これ以上綺麗にできないことから
紙屑をまいたり、他の子供が掃除した所を汚したりした。
自分の方がよそよりもっと綺麗だと思われたい。
褒められたい。
だから、他の綺麗なところを汚すよりほかない。

これじゃあ本末転倒だよね。

そうではなく
お前は綺麗好きなんだね
という認め方には含みがある。

相手の何を認めるかといえば、
褒める時も叱る時でも
その行為でなく、
行為を生む最初の心の角度であり
それを支え、
或いは変えるように褒めたり叱ったりしないと
そのことが子どもの心の開拓に役立たない。

とある。
と、分かっちゃいながら
上手に描けたねなんて褒めているが。。
描くのが好きなんだね〜と言い換える。笑

あーそうか、私の母は
頑張り屋さんなんだ。よくやっている。
だから、さっきLINEをした。

よくやっているよ、頑張り屋さんだね。
みんな分かっているよ。
人生楽しんだもん勝ち!と。

そんな母の日。

ありがとうございます♡いただいたサポートは新しい薬局を建てるための資金にさせていただきます。