暗がりの京都紀行

 谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」という本をご存知だろうか。大まかに言うと日本人は「暗さ」に美を追い求めたという内容を延々と述べているだけなのである。だが日本の美学の本の中で私が最近一番腑に落ちた本であり読んでみることをお勧めする。

 本題に入ろう。今日は帰省から帰るついでに京都を巡った。京都駅からバスで清水寺まで行き、八坂さんまで下ってから歩いて哲学の道、銀閣へと巡り最後に御所を歩いて終わった。
 中でも清水と銀閣には思うところがあったので書きたい。
 清水寺は広く、技巧に富んでいるが、全く嫌な感じはせずのびのびと歩ける。門に入ってすぐの胎内めぐりは印象に残っている。100円で入れて、光のない暗い道を歩かされる。怖い。怖いが進むとほんのり明るい石が一つある。梵字が描かれた石に触って少し進むと出口だ。
 100円なのにいい体験ができたと思った、と同時にiPhoneの懐中電灯でも使ったら全く有難みも無かっただろうなと思った。
 次にお金を払って本堂へ入る。奔放として風光明媚な山の景色と対照的に本堂は仏の顔がぼんやりと見えるのみである。撮影は禁止だ、というか写真を見返してもいい気はしないだろう。そうじゃないと。
 舞台を降りて山道を降りる。本堂の人混みと比べて涼しくていい道だ。降り切ると音羽の滝という、1mぐらいの柄杓で手水をする変な場所がある。そしてそこから本堂を見上げると、古びた木で構成された大きな「影」が見える(以下の写真の通りだ)。

山道から見た清水
音羽の滝から見た清水

 私はこれを建てた1200年前の建築家に賛辞を述べたい。これほど前からリズム感覚のある建築が出来るのか、と。考えれば考えるほど見事な明暗のリズムである。よく出来た絵画みたいだ。

 もう一つ。銀閣である。銀閣はもちろんあの有名な書院造だけではない。将軍の隠居するところとして作ったのだからそれなりに広い、が建築としては狭く作ってあるように見えた。
 入ると枯山水(しかも盛り上がってる!)に、池があって奥を見ると古びた茶室がある。池の奥に建物があるのは金閣と同じ構図だが、銀閣は心にすっと入ってくる。明るい空、透ける池、その真ん中にどっしりとした暗い木造の建築がある。こちらも絵画みたいだ。
 奥に行くと小さな滝があり、木々に囲まれた山道があり、隠居にはうってつけの場所だなと思いつつ外に出る。こちらもいい景色であった。侘び寂びという使い古された言葉では済まされない、義政の恐ろしいセンスが垣間見えた。
 この他にも貴重な建築物を見回ったのだが、特にこの2つは絶賛しておきたい。

銀閣(慈照寺)の風景)

 この2つに共通する性質は何であろうか。それは「暗さ」に主題となるものを置いているところである。清水であれば胎内めぐりの、仏様の、見上げた本堂の「暗さ」、銀閣であれば茶室のどんとした「暗さ」である。
 例えば西洋絵画のカラヴァッジョ、バロックというものは暗い背景の中に明るい主題を描く。時代は下ってルノワールやオキーフだってそうだ。
 でも日本に生まれた(というのも何かおかしな表現だが)私にとって今日感銘を受けたのはこのような建築物であった。不思議なものだ。最初に書いた「陰翳礼讃」の通り、やはり暗いものを追い求めるのであろうか。
 
 私は常々黒田清輝の「湖畔」がなぜ「智、感、情」より受けるのか、後者の方が明瞭で筆致も良いのにとか思っていたが、今日理由が分かった気がする(絵のことが分からなかったら調べて欲しい)。鈍くて暗いからだ。絵の良し悪しに関わらず。

 「日本人性」は常々議論されていることである。百家争鳴で結論は出てない。だが視覚的においては答えが出せそうである。
 ネオン輝く東京の中で、なぜ木で出来た薄暗い寺や、ぎらぎら光らない神社はなぜ尊ばれるのか。同じく印象派展にあんなに人が入るのか。根っこは似てると思う。

 「暗がり」な私にとって今日の旅は本当に良かったと思う。京都ありがとう、頼むからもう100年そのままでいてくれ。伝統煌めく東京も、そのまた反対の京都もどっちもなきゃだめだから。

 それはそうとして今日の京都は暑すぎた。もう少しで新幹線も東京に着くが東京も暑いようだ。いい気になれないのでここで筆を置く。

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