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不器用な私に無償の愛を

愛は、様々な形で存在する。親子の愛、友達同士としての愛、恋人としての愛……数え切れないほどたくさんの形で存在するけれど、その中に「無償の愛」と呼ばれるものは存在しているのだろうか?

偶然見つけた記事に、「毒親とは、無条件に子供を愛することができない親です」と書いてあり、その言葉が頭にこびりついて離れない。

自分は幼い頃から人一倍不器用だった。だから、親は私の周りの優秀な友達を見ては、幾度となく「どうしてあの子のようにできないの?」「あの子を真似てみなさい」と私に言ってきた。今でも酷いと思うのが、「あんたと〇〇君(当時のクラスメート)を交換したい。」というセリフ。そんなことを言われるたびに、自分のアイデンティティが否定されていくような気がしたし、「私は私のままでは愛されないのだ」「親から愛されるためには、優秀であるという条件が必要なのだ」と思うようになった。そして、親から愛される能力がない自分のことが、私自身も嫌いになっていった。だから、私は自分の誕生日も嫌いなのである(親に忘れられていたトラウマも含めて)。

こういう重たい話は、自分の身近な人には話さない主義で、どうしても我慢できなくなった時だけ、こうやってnoteに投稿している。けれど、偶然この話を身近な人に話すタイミングがあった。今までの自分がどれだけ不器用で、拙い性格をしているのかも全部ひっくるめて、まるまる彼女にバレてしまったことになる。しかも、聞いていて面白い話ではないだろうし、私はもう彼女には嫌がられてしまった、嫌われてしまったのではないかと思っていた。

当時は私の誕生月だったのだけれど、その話をした翌週ぐらいに、その彼女から手紙が届いた。この前の件で怒らせてしまったと思っていたので、恐る恐る封を開けてみる。その中には、「誕生日おめでとう」というメッセージと共に、手作りのプレゼントが封入されていた。無償の愛は、こんなところにあったのだ。

彼女には家族がいるし、愛すべき人がいる。そういう人が、赤の他人に対して愛情を注ぐことはないと思い込んでいた。無条件な愛なんてものは、家族からしか与えられないと思っていた。そして、家族から与えられなければもうチャンスはないのだと。だから、この出来事は私にとっては革命的で、少しだけ希望をもらえた。

一生その人の愛に縋り、沼にはまっていく予感。

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