父と飲んだあの夜

一度だけ、父と二人で飲んだことがある。


父と母と私と、三人で旅行した。あまり仲のいい家族ではなかったので、とても珍しい旅行だった。確か父の「勤続●年記念」とかで会社から旅行券が配布され、無駄にするのももったいないし…くらいで出発したのだったのだと思う。関西の名所いくつか巡る、修学旅行みたいな旅行だった。

夕食を終えた後、父があるバーに行きたいと言い出した。昔ミュージシャンをしていた人が経営する店で、テレビで見て以来一度行きたいと思っていたのだという。あまりお酒が得意でない母は、ホテルで寝てるから2人で行ってきたらと早々にパジャマに着替えてしまった。そうして、父と二人で繰り出すことになった。

スマホを使いこなせていない父に代わってGoogleMapを開き、お店の名前を打ち込む。行先として示されたのは雑居ビルの一室だった。多少迷いながらもそのビルにたどり着くと看板すら出ておらず、なんとも入りづらい店構えだったが、旅の恥は掻き捨てとばかりにえいやっと店のドアを開けた。はたしてお客さんは誰もおらず、マスターのおじさんと私たちだけの空間となってしまった。

「何飲む?」と聞かれ父はビールと答えた。バーまで来ていつも飲んでるビールかよ、と思った私も何を頼めばよいやらわからず、チェーンの居酒屋でもよく目にするカクテル、スクリュードライバーを頼んだ。

父は少し面食らったようだった。「そんなお酒飲んどるんか」とつぶやいた父に「飲めない方が心配が多いでしょ」とマスターが慰めるように面白がるように声をかけていた。20代前半だった私は、少し居心地悪い思いをしながらスクリュードライバーを飲んだ。安い居酒屋のカクテルとは違う、ウォッカの味もオレンジの酸味もきつめの味で、私もビールにしておけば良かったと少し思った。

父のリクエストに応えて、マスターは1曲歌ってくれた。私は知らない曲だったけれど父は嬉しそうにしていた。その曲を聴き終えると、満足したとばかりに会計をして、私たちは店を後にした。

あれ以来、父と二人で飲むことはなかった。



…と書くと、まるで亡き父との思い出のようだがわが父上は今も健在である。あの頃よりだいぶ年老いたが幸い大きな病気もなく過ごしている。ただ今年は、会う機会がすっかりなくなってしまった。こんな世の中では、東京から地方への帰省はやっぱり気が引ける。

スクリュードライバーも悪くなかったけど、飲むなら父さんのようにビールが正解だったと思うよ。そんで、慣れないバーでおどおどグラスを傾けるより、家で缶ビールをプシュっと開ける方が、私たちには合ってるよね。柿ピーやスーパーのお惣菜をつまみながら、バラエティ番組を流し見しながら、飲み慣れたビールを楽しもうよ。

年末年始も帰省は叶わなさそうだ。いつになるかわからないけど、今度帰るときはビールを買って帰ろう。家のリビングで何の気負いもなく缶を傾けるのを楽しみに。




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