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「察する」のが苦手という話

はじめに

こんにちは。鎌田です。

私は、相手の気持ちを察するのがめちゃくちゃ苦手です。

もう本当に苦手。実生活に支障が出るレベル。
克服しないと死んでしまう。

しかしまだ死にたくはありません。

ということで、今回は私の苦手な「察する」という行為について話そうと思います。

私の感性は終わっている

まずはこちらをご覧ください。

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↑は「自分の大切なもの」というテーマで私が作ったちぎり絵です。

周りの皆が「おばあちゃんの家」とか「小さい頃から一緒に寝ているぬいぐるみ」とかを作っている中で、私はこんなものを作っていました。確かタイトルは「自由」だった気がします。

…こんな感じで、割と周囲との違和を覚えることが多い人生でした。あげれば枚挙にいとまがございません。

とは言え、周囲と感性が異なるだなんて言ってしまえば当たり前のことだし、当初はそこまで懸念していませんでした。

普通に変わっているだけなんだこちとら。飛べる小鳥は私のように 地面を速くは走れないんだぞ。

そう思っていました。

しかし、カウンセラーさんから「ちょっと凸凹しているよね」というお言葉をいただいたとなると、話は変わってきます。

何せ専門的見地からのありがたいお言葉。「私変わってるんだよねw」という自虐的自慢では済まなくなってしまいました。

「察する」のが苦手という話

話を戻します。

「相手の立場になって気持ちを理解する」。言うだけなら簡単ですが、実際難しいことです。

そもそも相手の気持ちを全て理解しきるなんてことは不可能ですからね。無理難題なんだい。(皆さん!右下のハートボタンを押すタイミング今ですよ!!)

…これに関しては私の屁理屈とか抜きに、よく言われることだと思います。相手の立場には立てないからこそ、相手の気持ちに寄り添うことが大事なんだよ、みたいな話。

相手の気持ちを全て理解しきれなくとも、微塵も理解できないわけではない。なるほど、まだまだ人間は捨てたものではありませんね。

やったー!HAPPY ENDだ!!

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…はい。まあそう簡単には行きません。

ここで厄介なのが、私の終わっている感性です。

これがいわゆる普通の人であれば、自分の感性に沿って相手の気持ちを察することで、その正答率を高めることができるでしょう。

しかし、それは相手と自分の境遇が近いからこそ為せる業。相手と境遇が違えば、正答率を高めることは難しくなるのではないでしょうか。

例えば未成年の方にとっては、ご高齢の方の気持ちよりも同年代の方が察しやすいでしょう。

それと同様に、私は一般的な感性とはズレているため、相手の気持ちを察するにはより多くの労力が求められます。

具体的には、充分なコミュニケーションが要されるのです。

まとめ

つまり、感性が終わっている私は相手の気持ちを察するのが苦手であるため、人並み以上にコミュニケーションを大事にするべきなんですね。

ただ、「察する」のが苦手ということは、コミュニケーションの過程で言動を間違えることも大いに考えられるわけでして。

「察する」のが苦手だからコミュニケーションをとる→その過程で失敗してコミュニケーションを諦める→コミュニケーションが足りず相手の気持ちを察せない→死、となってしまうわけです。

冒頭でもいいましたが私はまだ死にたくないので、失敗してもめげずにコミュニケーションを図る必要があります。

しかしですね…「失敗=相手の気持ちを理解できず不適切なコミュニケーションをとる」ってことで…それをひたすら続けるということは…

「私は死にたくないから代わりに皆さん傷ついてください!」って言ってるのと同義なんですよね…。最低では…?

でもカウンセラーさんに相談したら「気にしなくていい」って言われちゃったんだよな…本当に大丈夫なのか…??

まあ私の終わっている感性よりはカウンセラーさんの意見の方が信憑性高いし、従ってみるとするかな。

というわけで、当面は他人を踏み台にして頑張っていこうと思います。


それではまた次回。
ご清覧ありがとうございました🍎

ここに文章を書くことで誰かがサポートしてくれるなんて、そんな都合の良い話あるわけないよな…いやまさかそんな…ねぇ?