終着駅は海につながる

終着駅は海につながっていた。
1900年当時、新橋、飯田町駅、秋葉原駅、隅田川駅、錦糸町駅、両国駅、とうきょうスカイツリー駅は船着き駅であった。
トラックがまだない時代、都心部など東京下町一帯では、鉄道で運ばれてきた貨物をもっともよく目的地に運ぶのは、水路を利用した船での輸送だった。
日本橋川へは新橋駅、神田川には飯田町駅・秋葉原駅、隅田川へは、とうきょうスカイツリー駅・両国駅・隅田川駅につながっていたのである。
運河や川に面している場所には貨物ターミナルがあって、鉄道と舟運とが連携をしていた。
トラックがまだない時代、都心部など東京下町一帯では、効率よく目的地に運ぶのは、内陸部から鉄道で船着き場まで運び、船で水路を利用した輸送で運ぶことだった。

2022年10月14日は、鉄道は開業150年の記念日であった。
150年前の1872年10月14日に新橋から横浜へ鉄道が開通した。
1872年は明治5年であり、江戸から明治に変わった直後である。
「ざんぎり頭をたたいてみたら、文明開化の音がする」と言っていた時代だ。
ざんぎり頭とは、西洋風に短く切った髪型のことであり、数年前の江戸時代まではちょんまげの文化でした。
ざんぎり頭にした人たちは、文明開化に乗っていこうとしている人の象徴だった。
日本はさまざまな形で西洋文化を追いかけ始めていた。
江戸時代の日本は、鎖国をしており海外との交流がほとんどない内陸国家でした。
国内移動は、徒歩か馬か駕籠というくらいでしかなかった。
参勤交代の大名移動でも徒歩が中心の移動であった。

そのころ世界において、日本は極東の国という位置づけであった。
私たちがよく目にする世界地図は日本が中心に描かれ、ヨーロッパやアメリカが端のほうに描かれている。
しかし、当時の世界はヨーロッパを中心に動いていた。
ヨーロッパの軍事力により、次々とアジア諸国が植民地化されていた。
ヨーロッパが中心の世界地図に日本は、中国より右の端っこに小さく描かれている。
その後アメリカが世界最強の国となった。
アメリカが中心の世界地図には日本も端っこに描かれている。
そんなはずれの日本まで、ヨーロッパの国がわざわざ来ることもすくなかった。
日本が鎖国により海外との接触がなかったのは、この端っこにいたおかげである。

そんな日本にも1800年代後半に長期航海の補給地確保のも目的でアメリカより黒船がやってきた。
開国をせまられたのである。
急速に日本が海を通じて海外との関係が広がった。

日本には江戸時代までの内陸国家であるランドパワーから、海に活動を移すシーパワーに変化が必要となる時代であった。
国内だけをみていればよかったそれまでは、移動は徒歩や馬のスピードでよかった。
むしろスピード化しないほうが、容易に江戸に攻め入らない守備の目的もあった。
そんなか、西洋から鉄道という新しい移動手段である鉄道が導入された。
海につながる内陸の移動を強化する必要があったのだ。
急速に海外につながっていく。
内陸部から海外へつながる接点を鉄道がつなげていった。

国内輸送としては、それまでも船で運ぶ物流はあった。
輸送量は船の方が大きいが、スピードはあっとうてきに鉄道が早い。
鉄道で貨物を運ぶことによって、高速輸送が実現したのである。

その後日本国内の物流は、トラック輸送の急伸と自家用車の普及が進んだ。
鉄道貨物の輸送量は、1970年をピークに減少を始めた。
今から50年前のことである。
現在では、国内貨物輸送の鉄道のシェアはわずか4%。
自動車の64%から大きく引き離されている。
ただ、この時の鉄道の路線は現在もそのまま引き継いでいる。
線路の多くは、郊外からまっすぐ都心に向かっている放射線状の形をしている。
横浜線、南武線など南北の移動ができる路線はいくつかある。
しかし多数の駅から新宿、渋谷、池袋に行くのには便利だが、南北に移動しにくい。
北の町、南の町に移動するのには、いったん新宿、渋谷などの基幹駅まで戻っていくほうがはやい。
郊外の町から海岸の終着駅まで一直線に伸びていた時代の名残なのである。


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