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僕たちの原点、ヴィア・ブリアンツァから始める新しい挑戦

前回の投稿も、たくさんの方に読んでいただき、本当にありがとうございます。コメントを書いてくださったり、いいねやスキを押してくださっただけでなく、わざわざ直接メッセージを送ってくださった方もいらして、とてもうれしい気持ちでいっぱいです。

引き続き、僕自身が普段考えていることを中心に、noteを書いていこうと思っています。今回は、少し思い出話にお付き合いいただきながら「ラ・ブリアンツァ」というレストラングループがどんな場所でありたいかということを、お伝えできればと思っています。よろしくお願いいたします。

麻布十番で19年、地元の方々に愛していただけた

先日4月30日に、麻布十番の「ヴィア・ブリアンツァ」が閉店しました。閉店といってもお店がなくなるわけではなく、ブリアンツァグループとして新たな挑戦の場所として改装して生まれ変わるための一時閉店になります(驚かせてしまった方、ごめんなさい)。

ブリアンツァグループの本店「ラ・ブリアンツァ」は、2016年5月17日に現在の六本木に移転するまで、麻布十番のお店が本店でした。移転を機に、店名をラ・ブリアンツァからヴィア・ブリアンツァに変え、引き続き麻布十番の皆様に愛される店であることを大切にし、営業を続けてきました。

思い返せば麻布十番にラ・ブリアンツァをオープンしたのは、2003年のことです。それ以前も2001年から代官山でラ・ブリアンツァという店名のお店でシェフをしていましたが、そのときはオーナー様が別にいらしゃいました。

その後、そのオーナー様の体調不良もあって店を閉めることになり、僕は独立を決意します。ありがたいことにオーナー様からブリアンツァの屋号をいただき、麻布十番に心機一転オーナーシェフとして店を開いたのが19年前。当時僕は、32歳でした。

麻布十番の物件も、じつは代官山時代のお客様とのご縁でご紹介いただいたものでした。それまで六本木や赤坂、白金台といった落ち着いたエリアを探していましたが、なかなかいい物件に巡り合えずにいたところを、「麻布十番の和食屋さんが出ていく物件があるけど、おっくんどう?」というご連絡をいただいて、すぐに見にいったのです。

麻布十番の商店街から少し離れた場所で、近くには網代公園という小さな公園もある。静かで落ち着いた雰囲気が気に入り、この場所でスタートを切ろうと決意したのを覚えています。

たくさんのお客様に来ていただき、今も変わらず助言や進言とともにお支えいただいてる方々とお会いできたのも麻布十番でした。ご縁をいただけたことに感謝し、この場をお借りして御礼申し上げます。

高橋シェフのお客様が集まった最終日

ヴィア・ブリアンツァは、奥に長い形の店内に4名様までおかけいただけるテーブルが5つ。ここで13年という長い間、シェフとして厨房に立ち続けました。

その前にお店を出していた代官山に比べると麻布十番は、ゆっくりとお食事をするような街の雰囲気がありましたので、アラカルトではなくコースでお料理を食べていただきたいというブリアンツァのコンセプトにも、とてもよく合っていた街だったと思います。

麻布十番は、本当に小さな街で、いうならば下町。お店同士が繋がっていて、僕たちも営業が終わったらスタッフみんなで近くの居酒屋に飲みに行っていたし、近所のお店の方々もお客様としてブリアンツァに来ていただきました。

ブリアンツァ(Brianza)」という言葉は、イタリアの北部にあるロンバルディア州の地域名で、 ミラノの北にあるコモ湖周辺に広がる一帯のことをいいます。「ブリアンツァのサラミ」(Salame Brianza DOP) は、現地の伝統的な名産品として知られています。

イタリア全州をまわって料理の勉強をしてきた僕にとって、どの街も思い出深いのですが、ブリアンツァ地方は、イタリアにいた当時、仲良くしてくれていたシェフ、ルチャーノ・トナ(Luciano Tona)との思い出がある場所として記憶に残っています。

ルチャーノは、イタリア料理界の巨匠であるグアルティエーロ・マルケージさんのもとで腕を磨いたマルケージ派のシェフの一人で、高級避暑地だったブリアンツァ地方のカザテノーヴォ(Casatenovo)という街に「ラ・フェルマータ」(La Fermata)というレストランを開いていました。そこで短期間ですが働いたことがあって、その際にこの地域の歴史的な風景や豊かな自然風景に魅了され、それ以来「ブリアンツァ」という言葉がずっと心に残っていました。

英語の「brilliant」(素晴らしい、輝かしいの意味)をイメージさせる音の響きも好きで、29歳でイタリアから帰国して3カ月位で店を開こうとする若い料理人(僕のことです笑)にぴったりではないかと思いラ・ブリアンツァという名前に店名をしたのです。

ラ・ブリアンツァは、ヨーロッパの街角にある紳士淑女が集まるレストランをイメージしています。そのイメージは、今も変わっていません。街に根差して、地元の方がフラっと一人でも食事に入れる落ち着いた店。店中の様子が見えるように壁をガラス張りにしていたのも、そんな思いからです(その後のブリアンツァグループでも外から見える店づくりを続けています)。

ヴィア・ブリアンツァ、ラ・ブリアンツァから名前は変わりましたが、麻布十番という地で変わらず僕たちの原点のお店であり続けました。

それは、シェフを引き継いでくれた高橋誠さんを中心に「おっくんのお店」ではなく「高橋誠シェフのお店」として、麻布十番の方々に愛していただける店になったからだと思います。4月30日の最終営業も、高橋さんを愛してくださったお客様が集まった夜になりました。

高橋さんは、今回の業態変更を機に、独立して自分の店を持ちたいといっています。精一杯応援したいですし、高橋さんが開いた新しいお店に食べにいくのが今から楽しみでなりません。

キッチンの奥で仕込みをしながら
最新技術を学びたい

4月いっぱいで営業を終えたヴィア・ブリアンツァは、現在改装工事を終え、6月中頃のオープンに向けて開店準備を進めています。

新しいお店では、ブリアンツァグループとして初めての業態になる「フレンチ」に挑戦しようと思っています。店名もすでに決まっていて「Acid」(アシット)、英語で「」を意味する言葉です。

シェフは、児玉智也、31歳。奇しくも僕がラ・ブリアンツァのオーナーシェフになったのと同じ年ごろです。児玉は、フランス・ノルマンディ地方のオンフルールのレストランで、ミシュランガイド二つ星の「Sa.Qua.Na」(サカナ)や、北欧・デンマークの首都コペンハーゲンのミシュランガイド二つ星「Kadeau」(カドゥ)などで研鑽を積んできました。

そんな時に彼が料理をするポップアップイベントで初めて会いました。世界的レストランの日本支店のオープンに参画するために帰国した児玉でしたが、コロナ禍の影響でオープン日が不透明になり、「そんなに何年も待っていられない」と、次の道を考えていたそうです。食べた料理もおいしかったし、人生に対する意欲もある。それなら僕たちと一緒にやってみないかと声をかけたのが始まりです。

児玉には、自分のお店だと思って自分らしさを出してやってほしいといっています。ヴィア・ブリアンツァのシェフとして、僕ではなく高橋さんにお客様がついたように、Acidでも児玉シェフの料理を目指して食べにきていだけるようになってほしい。

ですので、僕はAcidのキッチンには立ちません。もちろん最初のうちは
お客様へのごあいさつもあってお店に立つことはあるかもしれません。しかし、あくまでAcidのシェフは、児玉智也です。

それよりも僕は、キッチンの奥で仕込みを手伝いたいと思っています。というのも児玉が見てきたモダンなフレンチやノルディックの料理を学べるチャンス。どうやって作っているのか、イタリアンとは違うテクニックを学んで、自分の料理にも活かしてみたいんです。

Acidでは、ミシュランの星を獲りたい

シェフとして13年間、長い時間を過ごしたヴィア・ブリアンツァには、本当にたくさんのできごとがありました。

とくにスタッフと一緒になって作っていった店でしたから、みんなで食べた賄や、休憩時間にトランプをして遊んだことなど他愛もない日常のことや、食い逃げしようとした人を追いかけていったた僕が逆に警察に囲まれてしまったという笑い話も、いい思い出として残っています。

19年という長い月日が経ち、キッチンの設備自体も古くなってきていました。漏電やガス漏れといった事故も起きないとは言い切れません。お客様やスタッフの安全を考えても、改修をしなければと思っていたこともあり、今回の新業態への転換は、さまざまなタイミングが重なったものでもあります。

そんなヴィア・ブリアンツァが閉店してしまうことに対して、僕自身悲しくなってしまうかなと思ったのですが、実はそれりもワクワク感の方が強いのに驚いています。もちろん、寂しさはあります。しかし、それを上回るほどの期待の方が強いんです。

それは、ブリアンツァグループのスタッフと一緒に新しいことが始められること、そしてみんなの個性を活かしたお店が生まれようとしているからです。

これからのレストランは、どこを切っても同じの金太郎飴のような店ではなく、1店1店に個性があることが大事になると思います。これだけ情報があふれた時代ですから、僕自身も食べに行きたいお店は、個性がはっきりしているお店に魅力を感じることは確かです。

児玉がAcidで自分のお店として個性を前面に出したお店作りをしていってほしいですし、大手町の「ラ・ブリアンツァ・トウキョウ」や日本橋の「フォカッチェリア・ラ・ブリアンツァ」、六本木一丁目の「ブリアンツァ・ロクイチ」も、それぞれ店もそれぞれのシェフが中心になって地元のお客様に愛される個性的なお店作りをしていってもらいたい。

それに新しいAcidの料理を学びたいというスタッフがいれば、所属を移って短期間でもいいので研修してもらいたいですし、そうすることでいろいろなテクニックや考え方が社内で共有されることになって(逆にAcidからブリアンツァに研修に入ってもいい)、よりチームとして強くまとまっていくのではないかと期待しています。

児玉とは「Acidでミシュランの星を獲ろう」と話しています。目標を設定することも、チーム作りでは大切なことだとも思います。

スタッフが育つ場所、そしてスタッフが旅立つ場所。ブリアンツァグループは、飲食店が好きで働きたくて入ってきた人たちが輝ける場所になるようにしていきたいと思っています。

ラ・ブリアンツァ」オーナーシェフ
奥野義幸

懐かしい写真を発見(笑)


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