見出し画像

あらためて、太郎さん敏子さんに想う



すでにこの世になく、それでもなおその言葉や作品や足跡に烈しく心を揺さぶられるひとは岡本太郎さんだ。その透徹したまなざしと言葉の凄み。一瞬一瞬に生命をひらききり、血の噴き出すような痛みにたえずその身を投げ出し続けることを厭わなかったひと。敏子さんの手記を読むと痛いほどにそれがわかる。

生活の中の取るに足らない選択のひとつさえも命がけで選び、最期まで岡本太郎であることをつらぬいた。けっして奇矯な爆発おじさんではない。

沖縄や東北の女性たちに寄せた太郎さんの文章に宿る、女たちのいのちの深みと悲しみに底の底から共振共鳴し、寄り添う、静かなまなざし。理屈抜きにしてその、彼女たちの精神風土の深みまで届いている感じ。
さらには太郎さんの写し取った写真の中の、彼女たちの美しさ。それは何より太郎さんのまなざしが、彼女たちの女性としての美しさとその人生を限りなくまっすぐにいとおしみ捉えている証しだと強くつよく思う。

猛烈におのれをつき出し実存を賭して闘う厳しきひとでありながら、かぎりなく優しく魅力的で色っぽく、可愛いひとでもあったという。
誰に習ったわけでもないのに、とても素敵なピアノを弾かれる方だったことも。(ぜひとも聴いてみたかったなあ…(泣)太郎さんのショパン)


 あるとき山の中の温泉に泊まった。谷を見おろす、すばらしい眺望の宿だった。
 早起きの太郎は朝、開け放った縁側に立って気持ちよさそうにひらけた景色を眺めていた。
 青空に鳶が一羽舞っている。悠々と翼をひろげて、羽ばたきもせず、大きな輪を描いて。そのうち、ふっと近くの高い樹の梢にとまった。しばらくあたりを眺めまわしているように動かない。と、また、すうっと舞い上がる。風に乗って滑空するのか、全然羽を動かさず、優雅に大きな輪を描いている。
 飽きずに眺めていた彼は、
「いいねえ。この次は生まれてくるんだったら、ああいう鳥になりたいね。
あいつには、名前なんか無いんだよ。オレは岡本太郎だ、なんて思って飛んでるんじゃないんだ。ただ、こう羽をひろげて、浮かんでいる」
 ほんとうにその鳥に吸い込まれそうな眼をしていた。
 それからしばらくの間、あっちこっちでその話をして、鳥になりたいを連発していた。両手を肩の高さにひろげ、すうっと鳶が舞うように、片側を少し下げ、また逆の側に傾いたりしながら、
「ぱたぱたと羽を動かしたりなんかしないんだよ。このまんま風に乗って、すうっと、いつまでも宙に舞っているんだ。あれはいいねえ」
 そして言うのだ。
「鳥には名前なんか無いんだよ。オレは誰々だ、なんて思って飛んでるんじゃない。これからどこへ行かなきゃとか、あの約束はどうしようとか、なんにもそんなことはない。いいなあ」
 その言い方には切実な実感があって、聞いている誰でも、引き込まれてにっこりしてしまう。
 岡本太郎であることを決意し、自分の全存在を社会にぶつけて闘っている。それは自分自身で選んだ道なのだけれど、それさえもはるか下方に見おろす自由の高みに飛翔したい。あのとき彼は痛切にそう望んだのではないだろうか。(敏子さんによる手記*)



「老いるとは、衰えることではない。年とともにますますひらき、
 ひらききったところでドウと倒れるのが死なんだ」(太郎の言葉)



*以上、すべて『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』岡本敏子編著/小学館文庫より。



……( ; _ ; )

こうしてごくわずかに引用した言葉でさえ、こんなにも人間太郎さんの存在が立ちあがる。といっても太郎さんのいのちとたましいの凄みはこんなもんじゃなくて…。
もうもう私のつたない筆致より、実際に岡本太郎記念館や川崎市岡本太郎美術館や大阪万博記念公園の太陽の塔や渋谷駅の明日の神話や、無数にある太郎さん敏子さんの著作などで、直接太郎さんの存在と表現にぶつかって頂くのがいちばんだけど。
(じつは私自身、実際の太陽の塔にまだ逢えておらず、記念館でミニチュアに対面したのみ。この身体の時間の中で逢いに行けるかな。間に合うかな…)


試みに太郎さんの本を手に取り、ぱらぱらっと数ページ読み返すだけでも打たれる。初期の著作は別として、ほんとうに敏子さんが秘書になって以降は一貫して文体にぶれがなく、言葉の純度が高い。あらためて、つねに太郎さんに寄り添い、昼夜問わず太郎さんの発言メモを取り続けその思想をまとめあげた敏子さんの功績の深さを思う。

敏子さんのそのメモの凄まじさたるや。たとえば東北探訪の際、岩手花巻の春日流鹿踊(ししおどり)に猛烈に感動し、踊り手たちの中に飛びこみ夢中で躍動しつつシャッターを切り続ける太郎さんにも懸命に食らいつき、体当たりでその言葉をメモし続けたという。

(大学時代、聞き書きしてたときはかなりメモ得意だったけど、いまや卓上で書くフツーのメモさえまったく記録の意味をなさぬ判読不能記号と化すこと多々な私には絶対無理だ…(泣)ほんと身体も視界も躍動させながら小さな手帳に手元を定め文字を書き起こせる敏子さんの体力集中力凄すぎる…( ; _ ; )!!!!!)




そういえば太郎さんは1959(昭和34)年からしばらく、青山の家(現在の岡本太郎記念館)でカラスを飼っていた時期がある。長野県戸倉の遊園地のモニュメント創作現場で保護されていた赤ちゃんカラスをいたく気に入って譲り受け、親羽だけ切り庭で放し飼いにしていたという。(太郎さんは当初鎖をつけるのを嫌がったが、近所に脱走するので後日つけた)
太郎さんがカラスに惹かれたのは、安易に人間になつかない野生動物の孤高のノーブルさからだった。

画像3
画像2
画像4
画像5
画像6

『太郎さんとカラス』岡本敏子(アートン)より


といっても上記の通り、そのカラスは太郎さんだけには甘え、太郎さんもカラスと一緒に青山周辺を散歩したり、鎖を振り回してカラスを飛行させる乱暴な遊びをしたり(笑)カラスもみずから庭からカアカア呼んだり窓をコンコンつついて、太郎さんに遊ぼう!とおねだりしたとか。可愛いなあ(笑)
ともあれ、私は太郎さんの鳥をめぐるエピソードがもの凄く好きだ。そして私の大好きな太陽の塔がカラスであり、太郎さんのノーブルな思想が沈められた巨大な孤高のトーテムであることを知りいっそう好きになった。



奈良原一高さんが撮られて、太郎さんのお別れの会でも使われたという、去り際の太郎さんがクルッとこちらを振り返り、いたずらっぽく笑みを浮かべている写真も見るたび泣きそうになる。もうほんとに大好きな太郎さんがそこにいる感じで。お願いだから行かないで行かないでって…。

本当、一度でいいからお逢いしてみたかった。いまでもつよく思う。
けれども太郎さんご自身が話されている通り、たとえ死で分かたれていたとしてもその人との出逢いに烈しく揺さぶられ、運命を感じたなら、それはもう人生における運命の人なのだと。

何より私は太郎さんのありったけのヨリマシである敏子さんにお逢いして見えない太郎さんに2度もお逢いできる奇跡にめぐまれたうえ、敏子さんの素晴らしき筆致で書かれたさまざまな手記や小説の中にありありと浮かびあがる太郎さんの姿に、こんなにも共振共鳴していのちやたましいと共在しているのを感じる。

そうしていまなお太郎さん敏子さんの存在と表現に消えることなくやどる神聖な炎により、私の大好きで大好きで大好きな好きな滝本さんとの日々がますますいとしくふくらみゆくよろこびとともに、歳月を経過して、いっそうおふたりの実存が病にも朽ちぬ強度でうれしくこの身に芽吹き続けているのがうれしい。
本当に本当に、あのときおふたりに出逢えてよかった。間に合ってよかった。…






写真左より
『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』岡本敏子編著(小学館文庫)
『岡本太郎に乾杯』岡本敏子(新潮文庫)
*『芸術は爆発だ!』の鳥の話。敏子さんがとてもいきいきと美しく太郎さんとその鳥の情景を写し取っているので、そのまま引用しました。敏子さんの文体の触覚とリズム。めちゃめちゃ大好きです(泣)
*『岡本太郎に乾杯』のこの書影写真が、上記の奈良原一高さんの写真です。

画像2

同。左より
『沖縄文化論 忘れられた日本』岡本太郎(中公叢書)
『太郎さんとカラス』岡本敏子(アートン)

画像7





*関連記事




(2017年7月16日付。岡本太郎さんメモに大幅加筆)





サポートありがとうございます🌸🌸🌸 頂戴しましたサポートは制作費、そして私の心と身体すべての表現に暖かくお贈りいただいているご支援であることを心に刻みつつ、大切に使わせていただきます。