トリエンナーレ 名古屋会場行きました!

今年は話題の絶えなかった愛知トリエンナーレ。4会場のうち名古屋市で行われている3会場に行ってきたので色々感想であったり、あの問題についても触れていこうかなと思います。

1,愛知芸術文化センター

名古屋市会場の中でも最も大きい会場。他の会場に比べると映像作品や面積を大きく使ったスケールの大きい作品が多い印象でした。印象に残った作品もたくさんありますが、そのうちいくつかご紹介します。

1,60分間の笑顔 アンナ・ヴィット

この作品は男女4人ずつ計8人が1時間、立ったまま笑顔をキープし続けるというシンプルな映像作品です。最初は余裕で笑っていられるのですが段々気持ち的にも身体的にもしんどくなり引きつった笑いやもはや笑顔とは呼べない顔になっていきます。この作品は色んなところにいい顔をしなければならない現代社会に生きている我々を投影しているかのような気がします。どんなにしんどくとも表に出せない抑圧された世界に生きる私たちは本当に幸せなのか。今までの自分の生き方やこれからの生き方を考えさせられるユニークな作品でした。

2,Translation Zone 永田康祐

この作品は他の写真の作品と同じところにある映像作品である。この作品では日本で手に入る食材で他国の料理を作りながら言語を翻訳する難しさ、失敗例を挙げている。言語には文化が反映されており、翻訳の際にその文化まで内包するのはほぼ不可能である。それは他国の伝統料理のレシピにおいても言えるという。例でナシゴレンと炒飯とFried Riceの関係について触れられていた。全て焼き飯であることに違いはないのだが細かくは別の料理である。しかしその違いを細かく説明したりその差異を料理で示すのは至難の業である。この作品はグローバル社会になっている今日において、様々なバックボーンがある相手を理解することの難しさを示しているような気がする。我々は日本語を通じて世界各国の文化に触れることは出来る。しかし、それは表面的であり真の文化を理解したことにはならない。字面だけで分かった気になるのは早計ということを実感させられた。

3,ラストワード/タイプトレース dividual inc.

この作品では人生最期の10分間に遺書を残すという設定で、多くの遺書がモニターに表示されています。また、キーボードとモニターの動きが連動し誰もいないのにそこで誰かが打っているように感じるパソコンがあります。この作品の面白いところは打ち直しや誤植などが全てそのまま表示される点です。遺書の奥にいる人物がどんな人生を歩み最期に何を伝えたいのかが最終的にできあがった文面以上に感じられます。では自分が死ぬ10分前に遺書を残すとしたら何を書くのでしょうか。100年近い人生を歩んだ先に残す10分。足りないくらい色んなことを書いて終わるもよし。一言だけ書いて終わるもよし。作品自体は遺書という最終地点にフォーカスしているけども、実はまだまだ先がある我々鑑賞者にこの先の未来について想いを馳せるきっかけにして欲しいという想いがあるのではないかと思えました。


2,名古屋市美術館

白川公園横に位置する美術館。恥ずかしながら美術館自体行くのが始めてでした。映像作品が少ないこともあり比較的短時間で見れました。ここの展示も面白いものがいくつもありましたが2つ紹介します。

1,The clothesline モニカ・メイヤー

この作品は女性差別やセクハラ・性暴力を受けたことがあるか、見聞きしたことはあるか、これらをなくすために何かしているのか、これらを経験したとき自分は本当はどうしたかったのかといった質問が書いてある紙に、事前に行われたワークショップやトリエンナーレの来場者が回答を書き絵馬のように飾るというものです。作者のモニカさんは長年に渡り世界各地で女性差別を取り上げており、時代や国によって違うものだからこそ今の生きた声(でも今まで口に出せなかった声)を届けるという意思があるのだそう。その回答には今尚そんな差別があるのかと驚愕するようなものが多く、加害者にならないのはもちろんのこと被害者に対してどのようなアプローチをしてあげられるのか考えさせられる作品であった。また、多くの被害を訴えるものの中に「こういった女性だけが差別を受けてるように感じる作品や記事こそが差別を生み出している」という意見もあり、平等というものの難しさを痛感することもできた。

2,1996 青木美紅

彼女は1996年生まれ、私より1つ上なだけというとても若いアーティストである。この作品は不妊治療を経て生まれたこともあり親の寵愛を一身に受けてきた作者自身が子供を産めるようになり生命というものを考えるようになる。そこで障害をもっていて最初閉経手術を受けさせられそうになりながらも拒み、奇跡的に子供を出産し育てた女性に会い生命の神秘に触れ、作者と同年に生まれたクローン羊のドリーが生まれた牧場に行き、生命の科学性に触れる。生命の偶然と必然の狭間で我々は何を思うか、といった作品になっている。正直なところ作品の完成度という意味では他の作品に比べ劣っていると言わざるを得ない。しかし、作者の背伸びをしていない感じ。見聞したものをまだ未熟な若者がなんとか解釈し表現しようとするがしきれないこの未完成な感じがなんとも印象深く離れない。不思議な作品でした。


3,四間道・円頓寺

国際センター駅からほどなくして着くここは町並みのいくつかの箇所に作品が存在するという芸術街道といった場所。もちろん始めて歩く場所で素敵なお店やカフェもありました。ここでも作品を2つご紹介します。

1,声枯れるまで キュンチョメ

これは2種類の作品で構成されており、共にジェンダーや自らのアイデンティティと親からもらった名前との差異に悩み、改名をした人たちにフィーチャーした映像作品です。1つは女性から男性に性転換し名前も変えた子とその母親が2人で同じ筆を取り旧名を書いた後、その上から改名後の名を書くという作品です。その中で親の言うとおりにしてきた後悔を述べる子とその意見を受け止めようと努力するものの心から理解しきれない母親の苦悩が見て取れます。もう一つでは改名した人へのインタビューを通して改名に至った理由、その後の環境の変化、親の反応などを紹介し、最後に自らの名前を声枯れるまで叫び続けるというものです。今は一昔前に比べるとジェンダーやアイデンティティ、LGBTなど個々の内面に関する問題というものが広く議論され認められだしています。しかし、いざ自分の家族が、ましてや愛情をいっぱい注いで育てた我が子がマイノリティな内面を有していたり自分たちが付けた名とのギャップに苦しみ改名したらそれを受け入れることはできるのでしょうか。この問題の当事者になったとき、我々はいかに考えが浅はかであったのか知ることになります。こういった人間の苦悩をリアルに描き出した良作だと感じました。

2,「輝けるこども」 弓指寛治

この作品は鹿沼市で起きたクレーン事故(登校中の列にクレーン車が突っ込み児童6人が死亡。クレーン車の運転手はてんかんを持っており、今までも交通事故を何度も起こしその度に車を買い換えているという事故)の被害者の遺族とお会いした作者がその話を元に被害者と加害者の両面から交通事故について考えるというものです。この作品を鑑賞中、作者の弓指さんが作品の説明をしてくださり、作品に込めた想いというものをより深く知ることができました。事故で亡くなった子達の生きた証であったりどんな子供であったのかを表した心温まる絵画と共に、子供達が果たせなかった思いを絵画の中で表現したり遺族の方が少しでも前を向けるような気遣いなど未来を描く作品も多かったです。そんな中加害者はどうして持病を持ちながら車に乗り続けたのか、なぜ親は車を買い与え続けたのか、そして今加害者の家族はどうしているのかという暗い側面。また、自分たちの生活に切っても切り離せない車はいつ自分を加害者にするか分からない。そんな自戒も作品の中で表現されています。愛知県は交通事故数のワーストをとり続けています。そんな土地でマスコミの報道が行う表面的な事実だけじゃない、交通事故の中を知ることにより事故の数が1つでも減り、1人でも多くの方が事故に巻き込まれないことを切に願うばかりです。


4,今回のトリエンナーレの問題について

最後にこの問題について触れましょう。今回表現の不自由展と題し、慰安婦像であったり昭和天皇の御真影を焼いて灰を踏む映像作品など、日本人の倫理観を踏みにじるような作品が展示され、公開3日で展示の中断が決まりました。河村たかし名古屋市長は展示に反対し再開された10月8日には会場前で抗議活動を行ったことなどが話題になりました。これは検閲で表現の自由を奪う行為で憲法違反だ!という意見もあれば、何でもかんでも表現の自由が使えるわけではない、これは反日プロパガンダでありヘイトスピーチと何ら変わりない!という意見もあります。これに関する私の意見を一言で表すと

日本人には心の余裕がなくなってしまったな

ということだけです。この件は検閲で憲法違反に当たるのか、ヘイトスピーチと同じで公共の福祉に与えられる自由とは言えないのか、そんなことは私には分かりません。どちらの主張も理解することは出来ます。ただ私はこの作品を作品として飲み込むことが出来ない人たちがあまりにも多く、芸術を鑑賞する上での心の余裕が足りなさすぎることの方が問題だなと感じています。そもそも芸術というのは上手い絵や彫刻を見て幸せになることだけではありません。今の世界が抱えている闇の部分や将来陥るかもしれない危機的状況など、そう簡単に発信し得ないものを発信するという役割も担っています。その意味合いにおいて今回の展示も意義のあるものだったはずです。(私自身この作品を見ていないので細かい事は言えませんが)今回の作品では過去に展示会で展示不可となったものを集め、なぜそれが展示不可になったのかの理由を作品と共に鑑賞し、この国における表現の自由は正常に機能しているのか、自由とは何かを考えるきっかけにしてもらうはずでした。これを見て「これを規制する日本は本当に民主主義といえるのか・・」と悩む人もいれば「この展示は人権損害であり、規制されて当然だ」と感じる方もいるでしょう。中には展示に怒りを覚える人もいるかもしれません。それでいいんです。それでいいはずなんです。しかし、それをそう受け取ることが出来ずに、自分たちの思いを踏みにじったという事でこの展示は悪であると決め打ちする人が本当に多かった。そして、そんな悪はこの世から抹消すべきだという人が多すぎた。悪を受け入れる心の豊かさがなさ過ぎるんです。

なんでこれほどまでに日本人の心の豊かさがなくなってしまったのかについては色んな観点で考えることができそうです。経済停滞している日本において生活に余裕がないこともあるでしょう。急速な情報社会化に対応できず、情報の波に飲み込まれ自我を律することが出来なくなっている人もいるかもしれません。今回の展示で自由に対する難しさもさることながら、日本人の心の余裕というものに関しても考えさせられることになりました。次回のトリエンナーレでは今回の件から心の余裕というものをテーマにした展示が出てくることを期待しています。


5,最後に

ここまで色々書いてきましたが、恥ずかしながらトリエンナーレに行くのは今回が初めてでした。今まで芸術鑑賞というもの自体が苦手で毛嫌いしていたのもあります。表現の不自由展を巡る報道がなければもしかしたら今年も行ってなかったかもしれません。しかし、本当に行って良かったと思っています。多くのことを考えさせられましたし、芸術の面白さに触れることもできました。次回あいちトリエンナーレ2022も楽しみにしたいと思います。

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