倭が日本を併合した

中国の唐(618~907)の歴史を記した『新唐書(しんとうじょ)』に次のような記述があります。「倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号(なづ)く。使者自ら言ふ、国、日の出るところに近ければ、以て名をなす、と。あるいは云ふ、日本は小国にして、倭のあはすところとなるが故にその号(な)を冒(おか)す、と。」。これはおそらくは遣唐使として派遣されたであろう日本の使者が中国の役人に対して日本の国号の由来を説明したことを記したものと思われます。『新唐書』に対して『旧唐書(くとうじょ)』があり、それには次のように書かれています。「日本国は、倭国の別種なり、その国日辺(につべん)にあるを以ての故に、日本を以て名となす。あるいはい曰く、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす、と。あるいは云ふ、日本はもと小国なれども、倭国の地を併せたり、と。」。『新唐書』では倭が日本を併合したとあり、『旧』では逆のことが書かれています。どちらが正しいのでしょうか?それを考える場合に、なぜ唐の歴史書が二種類あるのかがポイントになります。「旧」とあるように『旧唐書』の方が早く成立しています。唐滅亡後の後晋の二代皇帝出帝(在位942~947)の時代に編纂されましたが、唐の末期から五代にかけての戦乱で史料不足による不備があり、宋の時代になって新しく発見された史料を加味して、宋の第4代皇帝仁宗(じんそう 在位1022~1063)の嘉祐(かゆう)6年(1060)に成立したもので、唐の正史とされ、単に『唐書』とも呼ばれます。『旧唐書』の方が唐の時代に近いですから、記憶がはっきりしているとも考えられますが、わざわざ新しい歴史書を作ったところをみると信頼度が低いと言えます。そういう事情を考慮すると、やはり『新唐書』にある倭が日本を併合して、日本という国号を使うようになったというのが正解だと言えます。いずれにしろ少なくとも「倭」と「日本」という国が存在したことは確実です。
「倭」の名前が中国の歴史書に初めて登場するのは後漢(25~220)の歴史を記した後漢書(ごかんじょ)です。その後、唐の前代の陏(581~618)の歴史書の『陏書(ずいしょ)』まで一貫して「倭」です。ヒミコが登場する『魏志倭人伝』もヒミコがもらったという「親魏倭王」の金印も「倭」です。しかもこれは中国からの呼び名だけでなく自分たちもそう呼んでいたということになります。それが突然
日本側が自分たちの国の名前を「日本」と呼び始めました。その背景として天武天皇の存在があります。天皇という名称もこの時代から使われますし、天皇を頂点とする律令制度の導入など国家意識が高まったことが考えられます。「倭」には「小さい」「歪んでいる」とかいう意味がありますから、なおさらです。「矮小」の「矮」似ています。ではどういう名前にしようかとなったときに倭がかつて併合した日本といういう名前が、太陽神(日の神)の子孫が治める国の名前にふさわしいと考えられたからでしょう。

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