東紀州の熊野信仰(2)ー熊野市の飛鳥神社

以前、下北山村の桜を見に行くのに熊野市を通り国道42号から169号に入って間もなく「飛鳥」という案内板を見ました。こんなところに飛鳥!しばらく行くと奈良県に入りますから、奈良の飛鳥と関係があるのかなと思いましたが、実は新宮に所縁の地名です。「三重県立熊野古道センター」のサイトでは、「熊野市飛鳥町は、紀伊半島の南東部の山間に位置し、人口1000人余り、自然が美しい山郷」とあります。明治22年(1889)に飛鳥村となり、昭和29年(1954)の合併により熊野市の一部になりました。ここには飛鳥神社が複数存在し、すべて新宮の阿須賀神社に縁のある神社で、現在は寺谷(てらだに)と小阪(こざか)に飛鳥神社があります。小阪の飛鳥神社は寺谷の飛鳥神社から勧請されました。
その寺谷の飛鳥神社です。熊野市五郷町(いさとちょう)寺谷753番地に鎮座。主祭神が事代主命、配祀神が若宮大神と祭神不詳二座。この若宮大神が熊野権現の若宮かどうかは分かりません。三重県神社庁のサイトによると、創始は不詳だが一説には鎌倉時代中期の創建で、流れ谷(現在の五郷飛鳥)全域の総社であり、貞享元年(1684)の『中野文書』に、「往古新宮の阿須賀神社(西の御前の社)から大野御子と称する者を通じて当社に勧請されたことが記されている」とあります。西の御前はイザナミのことですから、イザナミを勧請したのか、イザナミと事解男が一緒に祀られていて、それを勧請したのかはよく分かりません。さらに明治期の神社合祀令が出される以前は流れ谷に五社の飛鳥神社が鎮座、そのうち当社が姉、神山(こうのやま)が次女、小阪が三女、大又(おおまた)が「オトンボ」(末の男子)との伝承が残されており、当社を起点として神山、小阪、大又の順で分社されていったとあり、明治41年(1908)に当社境内社の若宮神社二社、大井谷の飛鳥神社と大井谷神社(事代主命)、その境内社の若宮神社を合祀して飛鳥神社と単称したとあります。さてこの神社ですが、まず祭神が事代主であり、事解男ではありません。しかし次に述べる小阪の飛鳥神社の祭神と比べ、また神社庁のサイトの神社の由緒をみても、やはりここにも速玉神、事解男神が祀られていたことが推測されます。明治政府の神仏分離政策により、祭神名が変えられた可能性が高いと言えます。
小阪の飛鳥神社は、飛鳥町小阪202番地に鎮座。祭神は三重県神社庁のサイトによると、速玉男命、倉稲魂命、山神、稲荷神、地主神、玉置神、牛頭(ごず)天王、弁財天神、吉田神、若宮神となっています。サイト名『八百万の神』には祭神に事解男命の名前もあります。おそらく神社の名前、また阿須賀の神の本地仏の大威徳明王像があることからも、事解男神が祀られていたことは確かです。この神社の境内からは弥生式土器が出土しており、古代からの祭祀跡だったと思われ、また境内にある水鉢は文久2年(1862)に伊勢山田村(伊勢神宮外宮の所在地)の人から寄進されており、伊勢との交流を物語っています。社殿の中には鎌倉時代に作られた大威徳明王像の懸仏があります。この神社には、祓戸四神の霊が宿るという樹齢1300年以上という御神木の「四本杉」があります。祓戸四柱の神とは、瀬織津比売神(セオリツヒメ)ーもろもろの禍事(まがこと)、罪、穢れを川から海へ流す。速開都比売神(ハヤアキツヒメ)ー河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事、罪、穢れを飲み込む。気吹戸主神(イブキドヌシ)ー速開都比売神がもろもろの禍事、罪、穢れを飲み込んだのを確認して根の国、底の国に息吹を放つ。速佐須良比売神(ハヤサスラヒメ)ー根の国、底の国に持ち込まれたもろもろの禍事、罪、穢れをさすらって失う。この4神です。これらの神々が宿るというこの四本杉にお参りすれば厄難消滅ですね。
この限られた地域にかつて五ケ所の飛鳥神社があったのには驚きます。それがどうした経緯によってなのか、知りたい気がします。

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